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-5- 「気を失ってたのも五分くらいだし……それほど痛くないって言うんなら大丈夫かな。吐き気とかはしないね?」 やさしく問われて、達也はソファに横になったまま、こくりとうなずいた。 ふむ、とうなずくと、そばに膝をついていた乙名はゆっくりと体を起こした。 「もうちょっと休んだら今日はもう帰りなさい。電車だっけ? 一人で帰れる? 送っていこうか? ……そう? もし明日以降も気分が悪くなったり手足がしびれたりするようなことがあったら、すぐに病院に行くんだよ、頭は怖いからね」 それじゃぼくは店に出るから、と背を向けた店長へ、達也は小さな声で、すみません、とあやまった。 「きみが謝る必要はないよ」 乙名は部屋の入口で足をとめ、すぐ脇の壁によりかかっていた遥をじろりと睨みあげた。 「まったく。なんとなく察しはつくけど、怪我なんかさせるんじゃないよ」 長い髪をさらりと片側に流した遥は、胸の前で腕を組んだまま、軽く肩をすくめてそれに応えた。 ここは店の奥の小さな事務所で、唯一のソファがあるということで気を失った達也が運び込まれた。赤い布地は古びて擦れきれ、背中にはごつごつしたスプリングが当たるものの、酒が入って運転できなくなった乙名が泊まりこんだり、従業員が仮眠をとったりするときなど、なかなか活躍しているらしい。 濡れタオルの下で目を閉じていた達也の耳に、ドアが閉じる音に続いて、かちゃり、という小さな金属音が響いた。 何だろうと思った次の瞬間には、ぐいぐいっと力任せに体がソファの背の方に押し寄られる。ぼんやりしていた達也もさすがに驚いて頭を上げようとすると、顔半分を覆っていたタオルが脇に落ちた。 だが一瞬体が震えたのは、濡れた額がエアコンの効いた室内の空気に触れてひやりとしたからだけではなく、丁寧にマスカラが施された睫毛と、にこりともしない赤い唇がすぐ目の前にあったからだった。 達也を押してできた隙間に半ば無理やり腰を下ろした遥は、何を考えているのかわからないような無表情でこちらを見下ろしていた。 「それで? 聞かせてもらおうかな」 「な……何をですか」 ソファに寝そべり、頭だけを起こした不自然な格好で、達也は訊いた。 「ワケ。ここんところの不自然な行動の。つまり、バイキンみたいに避けられてた理由ってやつ」 「バ、バイキンだなんて、そんな。だからそれは店でも言ったようにただの八つ当たりで……」 半分体重をかけられている上に頭だけを起こしているせいで、首が辛くてふるふると震えてきたが、ここで力を抜いては駄目だ! という心の声に叱咤され、達也は必死で遥の視線を見返した。 ここで無防備になってしまっては何か恐ろしいことが起こるような気がする。 「フン。おれはね、ごまかされたとわかっててにっこり笑って引いてやるほど大人じゃないのよ。庄司さんとは違うんだからな」 遥の口から出た『庄司』の名前に、達也はぎこちなくまばたきした。 それに気づいた遥が不審げに顔を覗きこんでくる。 額縁のように白い顔を縁取るまっすぐな髪が、仰向いた達也の胸から喉へ流れ、さらに余ってとぐろを巻いた。 達也はとっさにその髪を掴んでいた。 一番にはうっとおしかったからだが、普段から一度触ってみたいと思っていたのも確かで、無意識に手が伸びてしまったのだろう。 あ、いい匂いがする……。 ほんの一瞬とはいえ、遥相手にうっとりしたのは致命的だった。自覚もない、鈍い達也と違って、彼がセンシュアルな反応を見逃すはずがない。 鼻先がじわりと熱くなり、それが相手の吐息だと気づいたときには唇がふさがれていた。 「ちょ……」 抗議しかけて開けた口の中へ、ぬるっとしたものが滑りこみ、慣れた仕草で口腔内をひと舐めした。 熱いのか寒いのかわからないような感覚が達也の背骨を走った。 いや、ぞくっとしたのは背中だけではなく――。 「うわっ!」 たやすく股間に血が集まりはじめた原因に気づき、達也は今度こそはっきり拒絶の意味をこめて、体の上の相手を押しやった。 「ちょっと、触らないでくださいよっ」 「なんで」 「なんで、って、おれのですからっ」 「知ってるよ。誰のかくらい」 達也はくらくらしながら綺麗にマニキュアのされた相手の指を自分の中心から引き剥がそうとした。 だがつるっと白い肌をしたこの美女は、実は達也よりも体格がいいのだ。こんなふうにのしかかられているとその差をはっきりと思い知らされる。達也は半泣きになりながら、それでもじたばたとあがいた。 「いたっ、痛いっ」 「暴れるからだろ。おとなしくしてなさいって」 「は、遥さん、ね、ここまで、ここまでにしておきましょうよ」 「さんざん人を煽っておいてそれ? もしかして避けてたのも、あれも手管か? おれやら庄司さんやら、さんざん焦らして悪いヤツだな」 「嘘っ、嘘だっ」 「なにが嘘」 「遥さんがおれになんて、そんなことあるわけないっ」 悲しいわけではなく、パニックと焦燥感から来るものだったが、情けないことに達也の目尻は濡れていた。 遥がそれに気づいて思わず手をゆるめると、達也はその隙にぱっとうつ伏せになって、ファスナーを下ろされかけた無防備な腹を相手から隠した。 「おまえ、なぁ」 ちょっと呆れたような声がする。 「おれがおまえに気があるの、知ってるだろう?」 達也はソファのざらざらした布地を睨みながら、激しく頭を振った。 「まじで? 本当に気づかなかったって?」 「だってそんなことあるわけない」 沈黙が流れ、空調機の作動音だけが響く室内に、小さなため息が漏れた。 「なんでそう思うわけ?」 「だって、遥さんには庄司さんが……」 達也は言いかけて言葉を濁し、遥さんがおれになんて、そんなことあるわけない、と頑なに繰り返した。 「庄司さんとおれが……? なんの話だよ……まあ、それはあとでいいや。それよりさっきから、おれなんかのなんか≠チてなんだよ。おまえもおれも男だからってことか?」 背後霊のように達也の背中にべたっと張りつき、遥はうつむいた相手の顔を覗きこむようにしてたずねた。 達也は言葉につまった。 男同士だからとか、そんなことは考えていなかった。ただ自分のような都会慣れしないただの臨時のアルバイトと、きらびやかな遥やカナたちは、違う世界に住んでいるように思っていただけだ。それはピカドールのような店の常連である庄司や、おかまバーのママであるというなつみも同じことだった。地方出の地味な大学生にとっては、本来ならテレビや人づてに聞くだけの、縁のない世界。似合わない世界。 達也は小さな声で何度かつっかえながら、それでも正直に胸の内を打ち明けた。 遥は黙って耳を傾けたあと、もう一度深いため息をもらした。 「なるほど……」 遠慮なく体重をかけられた背中に、それでもそっと頬が押しあてられる気配がした。 「まあ、なんとなくは気づいていたけど。達也は優しいけど冷たいとこある、って思ってた」 達也、と呼び捨てにされたことに気づく。そういえばさっきはおまえ≠ニか言われたような気も。今までは男言葉のときも、達也君、とかきみ≠セったのに。 「なんていうのかな、おれたちは水族館の魚で、自分は水槽の外の人間、みたいな目で店を見てるとこがあったろ。最初は水商売だからっていうんで下に見てるのかな、と思ったんだけど……」 「そ、そんな、おれ、違います」 達也はうつ伏せに押さえこまれたまま必死で身をよじった。そんなふうに誤解されたのではたまらない。 遥は、わかってるよ、というふうに耳たぶをぎゅっとつねった。 「うん、じきにわかったよ。この子はお客さんみたいな気でいるんだなぁって。店の客、って意味じゃなくて、わかるだろ、溶けこんでないっていうか――もちろん、仕事はちゃんとやってたし、そういう意味では文句のつけようもないけど――まあおまえがさっき言ったように、所詮は違う世界のことだって思ってたんだろう」 でもな、と遥は続けた。 「アルバイトって言うんなら、おれもカナもそうだし。乙名さんだって所詮雇われ店長だ。でもピカドールを作ってるのはそういう皆だろう? スタッフだけじゃない、常連の庄司さんや宮井さんも、たとえ一見さんだって、確かに一時かもしれないけど、店の一部なんだよ。達也だけ例外であるはずがない。 あと大学な。おまえ地方出だって気にしてるようだけど、そんなやついっぱいいる。それに東京育ちだろうが、田舎者だろうが、皆がいっしょくたになって、大学や、東京って町を作ってる。社会ってそういうもんだろ。おまえは今まで生まれ育った町で、よく知っている人間に囲まれて、そこそこ愛されて好かれてきたから戸惑う気持ちもわからなくはないよ。でもちゃんと目を開けて周りを見ないとな。おまえがお客さんの気分でいるかぎり、そこは客地でしかないんだからさ」 達也は黙って遥の言葉を聞いていた。 背中に乗られて苦しいはずなのに、押しつぶされそうなその重みが、どこか心地良かった。 「だいたいおまえね」 がらっと口調を変え、いくぶん腹立たしそうに、だがどこか愉快そうに遥は付け加えた。 「ちょっと見かけに左右されすぎなとこないか。そりゃ服装もその人間の一部だけどさ、大学の女がけばい化粧してるからって別におまえの敵じゃないし、おまえを馬鹿にしてるとは限らない。一人の人間として見てやれよ。見た目あれだけ軽いリョウや、それになつみさんの良さだってちゃんとわかってやれたおまえだろ。他のやつだって同じなんだからさ」 あと……。 遥はそこで、ぐっと達也の耳元に顔を近づけ、囁いた。 「おれのこともね。こんな格好してるからって別に綺麗な人形ってわけじゃない。にこにこ客に愛想笑い振りまいてるホステスはおれの一面。おまえにむらむらしてる方のオスの顔もちゃんと見てほしいわけ」 「む、むらむらって……」 再び怪しい雰囲気になりかけたのに気づき、達也は居心地悪そうに身じろぎして――とたん、あることに気づいて体を硬直させた。 遥はそれに気づいてフッ、と笑った。 「別におまえを熱烈に愛してるなんて嘘つくつもりはないよ。そういうのは主義じゃない。ただ、ひどく気になるの……そそられるわけ、肉体的に。ほら、わかるだろ」 「は、遥さんっ、それって、うわ、うわっ!」 じたばたと暴れ出した達也の上半身を押さえこんだまま、遥は器用に足をつかって、彼の下半身をソファから落とした。 おかけで達也はソファの角に腹をつけて上半身を預け、腰を突き出す格好になった。そしてその背中にぴったりと密着し、覆いかぶさる遥……。 嘘、今度こそ、嘘だ……。 達也の驚愕の原因は、柔らかな手で再び股間をまさぐられたことではなく、自分の腰にあたる、ごわごわしたドレス地越しの、固い感触にあった。 「うわっ、うわ……っ」 いくらイメージに捕われやすいと非難されたばかりとはいえ、今の状況を考えるだけで目眩がする。 自分のすぐ後ろで、息を荒げた黒髪の美女が、チャイナドレスの一部を固く膨らませていようとは。 「そら、下、脱いじまえ。制服、汚したくないだろう?」 達也の尻に腰をすりつけるようにして、遥が囁きかけてくる。その間も両手は休むこともなく……。 達也は突然の展開に驚き、慌てるばかりで、羞恥を感じる暇もなかった。 ただドアを開けたらどどっと雪が溢れてきて、あれー、と思う間に雪崩に巻きこまれてしまったようなものだ。 「あ、あっ! 遥さんっ、やめてくだ……ア!」 「よしよし、いい気持ちだろ。ほら、おれのも、な」 「うわっ、うわーっ、嘘だっ、あ、あ、あ――」 今まで出会ったこともない真夏の大雪崩に、達也はなすすべもなくごろごろと転がされ、いつのまにかズボンも下着も飛んでいき、喘いで開けた口の中に、さらにこれでもかと雪が押しこまれて、あげく窒息したのだった。 しくしくしく……。 ぺたんと床に腰を下ろした達也は、まさにそんな気分でソファのシミを拭っていた。 じとっと恨めしげに遥の方を見上げるが、彼は事務机に腰を乗せて、すっきりした顔で煙草を吸っている。 自分のものは手際よくちゃんとタオルで受けとめてドレスを汚すこともなかった彼は、ソファに飛ばしたのはおまえだろ、と笑って言い放ったのである。 さすがに部屋の隅の流しでタオルはすすいでくれたが、あとはそれを放ってよこしたきり、後始末を手伝おうともしない。 だが、元どおり隙なく身づくろいを整えたはずの彼の額に、汗で数本の髪がはりついている。なぜかそこに強烈な男くささを感じ、達也はどきりとした。 よく見れば、煙草を咥えた唇も口紅が半分以上はがれている。その生々しさは、「達也、たまらない」と熱っぽく囁かれた瞬間を思い出させた。 『あ、う、も、やばい、遥さん、もう…っ!』 追い上げられ、焦らされ、たやすく翻弄されて、結局庄司と遥を避けていた本当の理由も白状させられてしまった。 いつの間にかぼんやり見とれていたらしく、ハッと気づいたときにはこちらを見つめていた遥と目が合って、達也は耳の先を赤くした。 「どう? 気分は。悪くなかったろ?」 「悪くないって、遥さん、あなたねぇ。もう、おれはサンドイッチのハムみたいな気分ですよ」 情けない口調のそれを聞いて、遥は声をあげて笑った。ピカドールで出すミックスサンドのハムがへなへなのぺらぺらなのは皆が知っていて、常連ならまず頼む者はいない。 『達也君!!』 バン、と大きな音がして、室内の二人は揃って事務室のドアを見やった。 『あっ、開かないっ。ちょっと、なんで鍵なんてかけてんのよ、開けなさいっ、遥! いるんでしょーっ』 廊下で喚いているのはカナらしい。 遥は軽く舌打ちすると、机を降りておとなしくドアを開けにいった。 待ちきれない様子で飛びこんできたのはやっぱりカナで、ぐるりと室内を見まわし、濡れタオル片手にソファのそばにうずくまっている達也に気づいて眦を吊り上げる。 「ちょっと、達也君、頭打ったんじゃなかったの? なんで遥と二人っきりなのよ。おまけにベストもシャツもくしゃくしゃで……!」 「あ、その、寝てたから、い、今帰ろうと……」 達也はあわてて言い訳しようとしたが、カナは耳を貸さなかった。 「ちょっと遥っ! なんで鍵かけてたの? それになんで窓開けてんのよ、クーラー効かせてんのにっ」 「匂いがこもってたからよ……煙草のね」 壁にもたれ、遥は嫌味ったらしく女言葉で言い返した。 「くっ……あんた、あたしが遅番なのをいいことに、まさか……!」 遥はフン、と鼻で笑った。 「先に卑怯なマネしたのはそっちでしょ。よくもでたらめ吹きこんでくれたわね。あたしと庄司さんがつきあってるですって? それであたしが達也に嫉妬してるって?」 「えっ、あれって嘘?」 達也は驚いて、一転して気まずそうなカナの顔を見る。 「でも、だって、おれ、キスしてるとこ見たし……」 「ああ、あれは嫌がらせ。今までそこそこ女の子も口説いてたくせに、達也がバイトで入るようになってから、露骨にカウンターの前に陣取ってさ。手握ったりして、ノンケですって顔して図々しいんだよ」 口を開けたまま見上げてくる達也へ、遥はにやっと笑って見せた。 「ホモ扱いされてもめげずに通ってくるとは、けっこう根性あったみたいだけどな。開き直った大人も怖いから、達也、注意した方がいいよ」 「あっ、遥、なんで呼び捨て!?」 「そりゃ、そういう仲だから」 「なんですってぇ、あんた、やっぱりぃっ。この、変態っ」 「ふん、変態けっこう。オンナだって立場に胡座かいてのんびり構えている方が悪いんだろ?」 「きーーっ。達也君、なにされたの? このケダモノに、どこまでされたのっ!?」 「こらっ、なにごとですか、大声出して。店まで聞こえますよ」 「あ、乙名さん、聞いてよ、遥が達也君を〜っ」 開けっぱなしのドア口で口論を始めた三人を呆然と見上げつつ、達也は、ぶつけた頭が今さらのようにずきずきと痛み始めるのを感じていた。 やっぱり水族館のお客さんでいた方が安全かもしれない、 どんなにやさしそうでも綺麗でも、そのサカナたちがエサとして自分を狙っているのでは――。 達也は、いつのまにかその水槽の内側へ投げ込まれ、闘牛場の牛よろしく、衆人環視の中、へとへとになるまで追いまわされそうな、そんな予感にぞくりと身をふるわせた。 おまけに闘牛士としてエントリーしているのが一体誰と誰なのか、正確なところがてんでわからない。鈍感な彼には、何よりもそこが一番の問題なのだった。 |
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