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ピカドール
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「あ、おはようございます」
 男性従業員用の控え室の扉を開けると、すっかり身支度を終えた遥が所在なげに煙草を吸っていた。
 達也は他のホステス達よりも一時間以上早く出勤することになっていたが、遥は家が乙名のそれに近いということから、いつも彼の車に乗せてきてもらっているようだった。だからだいたい達也よりも早く店に来ている。
 今日も今日とてチャイナドレス姿――ただし本日のお色は目も覚めるような鮮やかな緑――の遥は、達也の姿を認めて煙草を持った左手を軽く上げた。
「おはようさん」
 パイプ椅子に腰掛けた遥は、右の踵を行儀悪く椅子にひっかけていて、白いストッキングに包まれた片脚を、ドレスのスリットから剥き出しにしている。
 男だ、とわかっていながらも、なぜかそこから目が離せない。
 気づいた遥に艶然と微笑まれて、達也はますます顔を赤らめた。何か言わねばと思いながら、ろくな言葉が浮かばない。
「お……おれも割と薄い方ですけど、遥さんてつるつるですね」
「あ、毛? まさか。剃ってんだよ」
「え、剃ってるんですか?」
 達也は改めてまじまじと男にしては細い脚に視線を落とした。
「あったりまえだろ。けっこう面倒なんだぜ」
 そう言って遥が見せつけるように深いスリットをさらに上へめくり上げると、腿の位置にレース地のガーターが覗いた。
「うわっ」
 絶対わざとやっている……。
 わかっていながら、あわててしまう自分が情けない。
 遥はへの字に口を引き結んだ達也をさもおもしろそうに見やった。
「こっから上も見たい?」
「えっ」
「この上。パンツ、見たくない?」
「見たくないですよ!」
「そお? 女もの穿いてんのか、男ものなのか、知りたくない?」
 そ、それは知りたいかも。純粋な好奇心として……。
「じゃ、見せ合いっこしようか」
「えっ!?」
「だって、おれだけ見せるのは恥ずかしいでしょ」
 自分から平気でドレスを捲り上げておいて、どの口が「恥ずかしい」などという言葉を口にするのか。
 達也は呆れて、ものも言わずに遥に背を向けた。
「あれ、いいの?」
「けっこうです、男の下着なんて見たくもないし、見せたくもないですよ」
「そお? おれけっこう興味あるなぁ」
 もう相手にしないようにしよう、と思って達也はハンガーに吊るしてあった制服を取り、ジーンズのチャックを下ろしかけたところで、ふと手をとめた。
 振り向くと、いつの間にやら椅子の上で姿勢を変えた遥が、身を乗り出すようにしてこちらをじっと見つめている。
「よく考えれば、きみのはいつでも見れるんだよね」
 ――これは、ひょっとしてセクハラかもしれない。
 達也はふるふると震える片手をドアに向け「出て行け」と無言の意志表示をした。

 
 地方育ちで真面目な高校生だった達也は、酒を飲むところといえば居酒屋くらいしか入ったことがない。だから「ピカドール」がどういう店かと問われても正確には説明できないはずなのだが、それでもここはバーというより会員制のクラブに近いようだった。
 地上に看板も出ていないので、振りの客はほとんどと言っていいほど入ってこない。小さなエレベーターで地下へ降りると、灰色のドアがあり、そこにからし色の簡素な文字で「picador」と刻まれている。
「達也君、ピカドールってどういう意味か知ってる?」
 目の前の客がにこにこしながら訊ねてきた。
 アルバイトでも一ヶ月を過ぎればさすがに店名の由来は知っている。
 光る(ピカ)人形(ドール)などという、騙される方も騙される方の嘘をカナに教えられ、別の客の前で大恥をかいたのは、確かカウンターの中に立ってわずか二日目だったはずだ。
「知ってますよ、闘牛士ってことでしょう」
 達也がそう言うと、相手はよくできました、というようにグラスをちょっと持ち上げてみせた。
 そろそろ常連の顔もかなり覚え始めてきたのだが、その中でも庄司というこの男の顔と名前が一致するのは早かった。
 週三日の達也の出勤日のうち、必ず二度は姿を見せたし、そのたびすぐ前のカウンターに座るからだ。
 会社帰りらしく常に背広姿で、小さなアタッシュケースを抱えている。達也には年の離れた兄がいるが、庄司のもつ雰囲気は、平凡なサラリーマンである兄のそれとはずいぶん違う。スーツも高級そうだし、何より兄はこんな店に一人で立ち寄ったりはしないだろう。
「闘牛士にもいろいろあるんだよ」
 庄司はそう言って、達也の顔を見上げた。
「そうなんですか?」
 スツールに腰を下ろしているのに、庄司の目線はずいぶん高い。それは彼がかなりの長身の持ち主であるからだ。身長だけではない。わずかに目尻の下がった容貌はいかにもやさしそうで、ちょっと人目を引くハンサムだ。
 年齢は兄より少し上の、三十歳前後といったところか。それでも彼の、いかにも大人の男らしい落ちついた物腰は、普段達也の周囲にいる人間とは違って、ひどく新鮮に見え――同時に、将来こんな男になれたらいいなという密かな憧れの対象でもあった。
「うん、それぞれに役目を持っていてね。牛をケープであおって性格を判断したり、槍や銛で刺して興奮させたり……最後に牛を仕留める闘牛士はマタドールって言うんだよ。これが花形だね、ショーの主役だ。短剣で大動脈にとどめを刺すそうだ」
 達也はグラスを磨く手の動きを止めずに、庄司の話に聞き入った。闘牛といえばスペイン、くらいの知識と、何となく「残酷」というイメージしか持っておらず、今でもたいして興味があるとは言えなかったが、それでも知らない話を聞くのはなかなかおもしろかった。
 店名の由来を客から聞く、というのも恥ずかしい話だが、店の者や常連客によって物慣れない自分がいつまでも新米扱いされ、同時に弟分として甘やかされているのを達也自身気づかないわけではなかったから、ここは素直に講義を拝聴することにする。
「じゃあピカドールっていうのは?」
「ピカドールっていうのは、馬の上から牛に槍を刺して興奮させる役なんだそうだよ」
「へえ、そうなんですか。どうしてマタドールにしなかったんでしょうかね、店名……」
 庄司のグラスが空になっていることに気づき、達也は手を伸ばした。彼が水割り一杯で切り上げるということはないから、あらかじめ断られない限り、黙っていても次を作ることになっている。
「さあ、それは知らないけど……。でも、あおるだけあおって、とどめは他の奴に任せるなんて、いかにもここのオーナーらしいって言えばらしいけどね」
 庄司はそう言って笑い、新しいグラスを目の前に置いた達也の手首をさりげない仕草で掴んだ。
「ぶすっとやるのは一緒だけどね。マタドールもピカドールも」
 そんなふうに囁きながら、達也の目を覗きこんでくる。
 困った、と達也は思った。
 どうも大人たちというのはスキンシップが好きらしいのだ。いや、世の中の大人がみんなそうとは思わないが、この店に出入りする人間はそうらしい。
 ホステスならまだしも、ただのバーテンである自分も、酒を運んだりしたときに客に手や背中に触れられることがある。もちろん挨拶程度でそれ以上の意味はないことはわかっているが、特にその頻度が多い、と思うのがこの庄司という男だった。
 変なオヤジならいざ知らず、清潔そうな庄司に触られて気持ちが悪いということはないが、達也が困るのはその手を引き剥がすタイミングだった。
 どうも自分はうまく相手をあしらって身を引くことができない。だが、放っておくと庄司はいつまでも離さないのだ。この前などえんえん手を握られたまま会話の相手をさせられたことがあって、さすがに仕事にならず、見かねた乙名が助けに入ってくれたのだ。
「あの、あのう……」
「達也君の手は冷たいね」
「空調のせいかも。あと、水を触っているし……あのう、」
「あたしの手はど〜お? 庄司さん」
 不意に、横から真っ赤なマニキュアを塗った手が伸びてきて、庄司の手をがしっと掴んだ。
「遥さん」
 達也は内心ほっとして、庄司の隣のスツールに滑りこんできた相手を見やった。片方の髪をピンで高く留め、反対側に長くさらりと流した美女は、達也の視線を受けて、にっこりと微笑んだ。そしてさりげなく庄司の手を達也からはずすと、手元に引き寄せる。一瞬水面下で何らかの攻防があったようだが、気づいた者は少なかった。
「やあ、遥ちゃんか。今日のご機嫌は?」
 庄司はにこやかな笑みを浮かべて隣を向いた。
「もちろん、最高よ。庄司さんが来てくれたんですもの」
 店での遥は完璧に女言葉を使う。仕草も優雅な女性のそれだ。とてもさっきまで、控え室のパイプ椅子の上で片膝を立てて煙草を吸っていた人物とは思えない。
 そして、達也が「ピカドール」を変わっていると思うのは、客の方も遥を完全に女性扱いしているということだ。この長身と低い声で、まさか本当の女だと思いこんでいるはずはないのだが、客は他のホステスと同等に甘え、おだて、くだらないおしゃべりを楽しんでいる。
 ――まさか気づいてないことなんてないよな。チャイナ服の襟で目立たないとはいえ、ちゃんと喉仏もあるもんな。
 なんにしろ、不思議な世界である。百八十センチ近い女装の男性がホステスをやっているのに、店内のどこにも色物めいた雰囲気がないというのは。ピカドールは、常連客ばかりということから多少馴れ合いめいたところはあるが、基本はあくまでも真面目な大人向けの店なのだった。
「そういえば達也君、大学生だったよね? もう夏休みなんじゃない?」
 隣には遥がいるのに、どうして庄司は自分に話しかけるんだろう、と思いながらも、達也は頷いた。
「あ、はい。先週からなんですけど」
「いいなぁ。何か予定でも?」
「いえ、特に……」
「あれ、彼女と旅行したりしないの?」
「達也君、彼女いるの?」
 それまで黙って聞いていた遥が突然会話に入りこんできた。
 ははは、秘密です、と笑って誤魔化そうとした達也は、ふと顔を上げて、じっとこちらを見つめている二人の顔に気づいた。
「えーと……」
「いるの? 彼女」
「……いません」
 とたんに、何が嬉しいんだか、にっこりと揃って微笑まれる。何だか馬鹿にされているような気がして、面白くない達也だった。
「どうせ、おれはもてませんから。リョウとは違います」
 拗ねてそんな口をきく達也を、遥に手を握られたままの庄司がやさしい目で見やった。
「今はね、まだ、どうしてもリョウ君みたいな見た目がカッコイイ子に目がいくんだよ。遊び上手とか、顔が広いとか、女の子と軽い会話ができるとか、ね。でも見てなさい。そのうち君みたいに素直で優しい男の利点がわかってくるようになるから。頭のいい子から順番に君の良さに気づいてくるよ」
「そ、そんな、買い被りですよ……」
 そんなふうに持ち上げられて、達也はかすかに顔を赤らめた。客にお世辞を言われるというのも恥ずかしい。
「そんなことないって。達也君、高校時代はけっこうもててたんじゃない、どう?」
「もててなんかいないけど……」
 実は達也は高校時代はそれなりに女の子と付き合っていた。勉強もスポーツもそこそここなしたし、根がフェミニストなので、特に下級生に人気があったのだ。だからこそ、上京してきて、自分に見向きもしないような派手な女の子たちの間で萎縮しがちになってしまうのだ。
「でも、ガールフレンドとかはいたでしょう」
「まあ、いちおう……」
 やっぱりね、というように庄司が笑みを深くする。
 一方遥は、気のなさそうな声で、ふーんそうなんだ、と呟きながらそっぽを向いた。
「でも、リョウはかっこいいだけじゃないですよ。いいヤツですよ。おれのことも面倒みてくれるし。ここのバイトだって紹介してくれたし。結構気も合うんですよ」
 何とか話題をずらそうと、達也は友人のことを持ち出した。自分のことを話のネタにされるのはまだ慣れていないせいか、恥ずかしい。
「わかってるよ。リョウ君は頭いい子だよ。君の良さがわかってるんだもの。早く怪我治るといいね」
 こちらの気持ちを察したのか、庄司が上手に話をまとめてくれ、達也はほっとして頷いた。
 ちょうど良いタイミングで遅番のアルバイターが姿を現し、乙名が達也に上がるようにとの合図をよこした。店は深夜まで営業しているが、学生である達也は十時までが勤務時間である。まだ十時には少し早いが、そういう場合は裏の仕事を少し手伝うことになっていた。
 まだ話し足りなさそうな庄司に挨拶して奥へ引っ込んだ達也は、控え室で着替えてから厨房に顔を出した。
 ピカドールで出す料理は酒のつまみ程度がほとんどで、それもケータリングや業務用の冷凍食品を主に使っているので、厨房はそう大きくはない。ここを任されているのは乙名より年長と思われる田滝という男で、私服の上にエプロンをつけた達也の姿を認めると、傍らの空き瓶のケースを指差した。
「帰る前に力仕事で悪いけど、これ外に出しといてくれるか」
「いいですよー」
 初日はわからずにエレベーターで店の正面から入ってしまった達也だが、従業員は裏の非常階段から出入りすることになっている。
 地上へ続く薄暗い階段をケースを抱えて上がった達也は、裏口のドアを押し開けようとして、何かが突っかえているのに気づいた。
「あれ?」
 膝で器用にケースを支えながら、片手でノブをひねって押すのだが、とん、と何かに当たって、それ以上扉が開かないのだ。
「おっかしいなぁ」
 首をひねった達也がいったん階段にケースを置こうとすると、すぐ外で鼻をすするような音が聞こえた。
「誰かいるの?」
 そっと声をかけると、ううう、と唸るような声がする。病人でもいるのだろうか。
「あの、だいじょうぶ……かな? あのね、ちょっと、そこにいられると開かないんですけど」
 困ったな、と思いながらケースを下ろして遠慮がちに声をかけると、しばらく経ってから、もぞもぞとドアの前から人の動く気配がした。
 なんとなく恐る恐る開いたドアから顔だけを外に出した達也は、きょろきょろと辺りを見まわしたのちに、ちょっと離れたところにうずくまっている人影に気づいた。こちらは裏通りなので表の照明もあまり届かない。暗がりにひそむ小山のような黒い影は、あり得ないと知りながらも熊か何かの野生動物のようで、ちょっぴり怖い。
「あ、のう……」
 恐る恐るかけた声に促されたように、人影がふらりと立ち上がった。
「うわっ」
 達也が思わず声をあげたのは、その相手が予想以上に大柄だったからでも、派手な着物を大木のような体に巻きつけていたからでもない。
 非常灯に照らされた、泣き濡れて化粧の剥げ落ちた顔が、まぎれもなくごつい男のそれだったからだ。
 さらに度肝をぬいたことに、和服の熊はドア口の達也に襲いかかるようにして抱きついてきた。
「わーん、アタシッ、アタシ〜〜〜ッ!!」
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