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ピカドール
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 うわ、でかい女!
 店内に足を踏み入れた達也がまず思ったのはそのことだった。
 長袖の赤いチャイナドレスに真っ黒なロングヘアー、わずかに吊り上った目尻をさらに強調するようにばしっとアイラインが入れてある。
 ひとことで言うとすごい美人だった。それも妖艶な、という形容詞をつけた方がいい。
 だが、特筆すべきはその身長だ。一七三センチと、達也自身、男性としてそれほど背の高い方ではないが、それにしてもこの角度で女性を見上げた経験はなかった。ヒールを履いているにしても、自分より長身であるのはまず間違いないだろう。
 今時珍しいほどの深紅のルージュを塗った唇が、達也の呆けた表情を認めて、にいっと笑った。

 
「あ、もしかして志木君? リョウ君の代理の」
 店の入口をふさぐように立った大女に達也がとまどっていると、奥のカウンターから小柄な男性が出てきた。
 三十代後半くらいだろうか、髪をぺたりとオールバックに流し、眼鏡をかけている。レンズの奥の細い目が遠目にもやさしそうで、達也は思わずそちらにすがるような目を向けた。
「あ、はい、志木達也(しきたつや)です。すみません、遅れて。住所は聞いてたんですけど、迷っちゃって」
 男はうんうん、とうなずいた。
「ここ、わかりにくいからね。上に看板出てないし」
 そして、自分は店長の乙名(おとな)だと名乗った。
「大丈夫、まだ開店前だから。次からはもうちょっと早く来てくれると助かるけど」
 達也がはい、と答えようとすると、横から「リョウ、どうしたの?」と声がした。
 あれ、と思ったのは、位置関係から言って隣に立っている女性のセリフに間違いないのに、その声が意外なほど低かったからである。
「なんか足の骨を折ったとかで、全治三ヶ月だって話だよ。志木君はリョウ君と大学が同じなんだよね?」
「はい」
 達也は横からの遠慮のない視線を感じながらも、乙名の方を向いて答えた。
「なんか駅の階段から落ちたってことですけど、おれも電話で話をしただけなんです。とりあえずここのバイトの代理だけ、どうしても頼むって言われたんですけど、詳しいことは聞いてなくて……バーテン、ですよね」
 達也は、不安そうに薄暗い店内を見まわした。
 カウンターに、ボックス席が三つ。
 席数は少ないが、ゆったりとした空間が取られているので割と広く見える。壁や調度品は濃淡のグレーと黒でまとめてあり、ところどころにアクセントのオリーブ色が入って、全体的にシックな印象だった。
「おれ、酒とか作れないんですけど……」
 達也はつい小声になったが、乙名はいいのいいの、というように片手を顔の前で振った。
「そういうのはぼくがやるから、平気。志木君はおいおい慣れていってくれればいいから。忙しい時間帯はもう一人バイトが入るしね。きみには酒を運んだり、片付けたりとか、どっちかっていうと雑用の方をお願いしそうだな」
「バーテンとは名ばかりの、下働きみたいなもんだからね」
 チャイナドレスの女性がもう一度口をはさんだ。
 その声色に再び違和感を感じ、達也は決してごつくはないが、女性にしては少々広い肩幅のあたりをついじろじろと見つめてしまった。
「えっと、ホステスさんですか?」
「そう、遥(はるか)。よろしく」
 相手はにっこりと笑って、綺麗にマニキュアが施された片手を差し出してきた。
 これまた意外に大きな手に達也がつい握手をためらっていると、
「あれー、誰、その子」
という能天気な声がして、店の奥からまた一人、華やかな女の子が姿を現した。
 遥と同じで化粧は濃いが、こちらは黄色いミニドレス姿である。どちらかというと可愛いらしいタイプだが、はっと目を引く顔立ちをしているのも一緒だ。ただ、身長は人並みらしく、達也よりも低かった。
「リョウ君の代理のバーテンさん、今日から入ってもらうんだよ。志木君、この子はカナちゃん」
「あー、彼、怪我したってねぇ。へええ、リョウの代理ぃ」
 カナ、と呼ばれた女の子は、そう言ってじろりと達也の顔を見た。
「全然イメージ違うじゃん。リョウの友達にしては地っ味ー」
 ずけずけとした物言いだったが、その口調に嫌味はなく、達也はつい苦笑したが腹は立たなかった。
 それに、自分が地味で垢抜けないのは本当のことなのだ。
 リョウこと三谷亮(みつやりょう)とは語学の授業で隣り合わせたことから知り合った。
 高校時代からバーでアルバイトしているような都会っ子のリョウが、いかにも地元出身者といった物慣れない自分をなぜかまうのか、最初の頃は達也自身不思議に思ったものだった。
 だが意外に気が合ったのは本当で、始終べったりというわけではないけれども、今では間違いなく親しい友人の一人になっている。
『頼むよ、世話になってるバイト先でさ、おれのせいで迷惑かけるわけにいかないんだ』
『でも水商売なんだろ。おれには無理だって』
『大丈夫、変な店じゃないからさ。客筋もいいし、マスターもいい人だし、それに達也バイト先探してるって言ってたろ。ファーストフードでバーガー作ってるより、よっぽど時給はいいぜ』
 そんな風に説得されて、達也はこのアルバイトを引き受けたのだった。上京して三ヶ月、大学生活にもそろそろ慣れて、何か新しいことを経験してみたい、という好奇心を刺激されたのも事実だった。
「……そんなことない、けっこう綺麗な顔をしてる」
 リョウとの会話を回想していた達也は、不意に横からぐいっと顎を持ち上げられた。遥だった。
「着てるもんが地味なだけでしょ。制服に着替えさせたら結構見栄えするんじゃない?」
 店で商品を品定めするように、上向きにした顔を軽く左右に動かされる。
 他人にそんな風にされるのは初めてで、達也はむっとするより何より驚いて固まってしまった。
「そうだよね、一応こういう商売だから、リョウ君も気を使って紹介してくれたんだと思うよ」
 乙名が相づちを打つ。
 そういえばリョウにも他の奴には頼めない、と泣き落とされた。他に暇な人間はいないのだという意味だと思っていたが。
「ふーん、そっかなぁ」
 カナはまだ納得がいかないような顔をしていたが、遥は興味を失ったのか、すい、と達也の顔から手を離すと、「乙名さん、ちょっと奥の電話借りる」と三人に背を向けた。そのまま、店の奥に消えていく。たぶんそちらに事務所や控え室があるのだろう。
 遥が消えると、三人の平均身長は一気に下がった。
「さて、志木君。あ、これからは達也君で呼ぶね。その方が堅苦しくないし。ぼくのことはマスターでもいいけど、乙名、と呼んでくれた方が嬉しいかな。皆そうだから」
「わかりました」
「とりあえず店に出てもらって仕事はやりながら覚えてもらおう。もうすぐ開店だから、急いで着替えておいで。制服は奥に用意してある。他に何か質問あるかな」
 確認するように問われて、達也は乙名とカナの顔を交互に見た。
「あのう……」
「ん? なに?」
 遥の消えた奥のドアに視線を移す。
 しばらく迷っていた達也は、思いきって口を開いた。
「あのう、ここ、ゲイバーなんですか?」
 その途端、容赦のない平手が達也の顔に正面から叩きつけられた。

 
『あたしのどこが、男に見えるってのよ!』
 そう言ってカナに殴られた鼻がヒリヒリと痛い。濡らしたタオルで冷やしていると、背後でくっくっくっ、という低い笑い声がした。
 振り向くと、案の定、控え室の戸口に立っていたのは遥だった。
「カナのこと、オカマ扱いしたって?」
「そんな、オカマだなんて……」
 達也が口篭もると、
「気ぃ使わなくてもいいの」
 そう言って大股でずかずかと近づいてくると、達也の隣のロッカーを乱暴に開ける。確かにそんな仕草は女性のものには見えない。
「だって、おれだってオカマじゃないもん」
「えっと、あのニューハーフってやつですか?」
 達也が思わず訊ねると、遥はえっと横目でこちらを見た。
「ゲイバー発言といい、きみ、おとなしそうな顔してけっこう遠慮ないね」
「えっ、えっ、そうですか」
 ニューハーフは差別用語だったかな、と達也が焦っていると、遥は香水らしきものを手首につけながら、「おれは正真正銘のオトコ」と教えてくれた。
「下も取ってないし、この胸はニセモノ。パッド入ってんの」
 その言葉に、思わず小振りだが形のいい二つのふくらみに視線を落としてしまった達也をくすくすと笑いながら、この髪は自前だけどね、と遥は右手で髪をかきあげた。
 その仕草はいかにも自然で女らしく、達也はさらさらと流れる毛先につい見とれてしまう。
「女装は趣味だよ。ま、きっかけは賭けに負けたっていうか、罰ゲームだったんだけど。やり始めたらけっこうはまっちゃってね。似合うだろ、おれ」
 達也は濡れタオルを握りしめたまま、うんうん、と頷いた。
 体格さえこそいささか良すぎるものの、完璧なメイクを施された遥の顔はまるでよくできた人形のようで、どうしても自分と同じ性には見えない。
 アイラインを取って、口紅をとって……と素の顔を想像しようとしても、連想されるのはどうしても美しく整った女性の顔だった。 ハスキーボイスと「おれ」という一人称が、何かの間違いとしか思えないのだ。
「なに、まだ信じらんない? 見せようか?」
 そう言うと、遥は腿まで入ったチャイナ服のスリットからぐいと手を入れ、そのままドレスを捲り上げようとした。
「わーーーっ」
 一瞬遅れて、遥が何を見せようとしたのかを悟り、達也はタオルをばたばたと振った。
「ちょっと、何騒いでんのよ」
 廊下から冷たい声が響く。
「なんだよ、カナ。覗くなよ」
「ばーか。誰があんたのなんか覗くってのよ。そっちこそセクハラしてんじゃないわよ。達也君、乙名さんが店開けるから急いでって」
「あ、はい」
 達也はあわてて顔を冷やしていたタオルを下に置いた。
 カナは先ほどの発言をまだ怒っているのか、むっつりとこちらを眺めている。
「あの、さっきのことですけど、本当にすみませんでした。悪気はなかったんですけど……」
 達也がもう一度謝ろうとすると、カナは軽く肩をすくめた。
「いいのよ、別に。よく考えたら悪いのはそこにいる変態のせいだもんね。あたしはそのとばっちり」
 達也の横で、遥が「オレ?」とおかしそうに言う。
「他の誰がいるって言うのよ。遥のせいで変な客は増えるし……」
「冗談のわかる客と言ってほしいな」
「とにかく、迷惑してるのは皆いっしょ。達也君も、こいつ、手が早いんだから気をつけた方がいいわよ」
 何を気をつけるんだろう、と達也が首をかしげていると、カナは男性用控え室に入ってきて、達也がテーブルに置いたタオルを手に取った。
「痛かった?」
 叩いたことを言っているのだと気づく。けっこうな力で殴られ、本当はまだ顔がじんじんしていたが、そもそも最初に失礼な発言をしたのはこちらなのだから、遠まわしにでも謝意を示されたのは意外と言ってよかった。
 遠慮のない物言いはするが根は素直な女の子なのだと、単純な達也はすぐにカナに好意を抱いた。
 思わず、全開の笑みを浮かべる。
「大丈夫です」
 だが、自分をぽかんと見つめているカナが黙ったままなのに気づき、どうしたのかと問うように横の遥を見上げると、こちらも達也の顔を凝視していた。
「えっと……?」
「……へえ……笑うと、そういう顔なんだ」
「……遥、あんたも、きた?」
「……きた。一瞬」
「何ですか? 誰が来たんですって?」
「何でもない!」
 いささか乱暴に言い放つと、カナはくるっと背を向けて控え室を出ていった。
「……あれ、おれ、何かまた怒らせちゃいました?」
「え、ああ、いや」
 遥は気を取りなおしたようににこっと笑うと、達也の首に手を伸ばして蝶ネクタイの位置を直してくれた。
「おれの言った通り、きみは制服が似合うね、って話」
 そんな会話だったんだろうか、といぶかしく思いつつ、ふんわりと香る遥の官能的なフレグランスに、達也はかすかに頬を赤らめた。

 これが、バー「ピカドール」での達也の第一日目である。
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