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ピカドール
-3-



「タカさんたら、単身赴任が終わったんだって。長野に帰っちゃうんだって」
 ぶっとい指が地面にのの字を書くさまを、達也は横でうんこ座りをしながら見守っていた。
「やっと家族のもとに帰れるよって、そりゃ嬉しそうに言うのよお。そしたらアタシ、良かったわね、って笑ってあげるしかないじゃない?」
 ねぇ、と見上げられて、思わずうん、と相づちを打つ。話半分に相手の愚痴を聞き流しながら、つい視線がその顔に吸い寄せられてしまう。涙で汚れた、白塗りの顔。こすったのか、溶けかけたアイラインと混ざって無残な様相と化している真っ青なまぶた。良く見ればつけ睫毛も片方きりだ。
 自分のことをあたし≠ニ呼ぶ男にはもうずいぶん慣れたと思っていたのだが、同じ女装でも基本の作りによってこうも違うものなのか、と達也は一種の感動さえ覚えていた。
 路地裏でしくしくと泣いている相手は、ピカドールに来る前の達也が頭に思い浮かべていた女装の男≠サのものだった。体育会系のようなごつい体に仮装のような派手な着物、自分よりよほど大きな顔に、遥の二倍は消費しているのではないかと思われる分厚いファンデーション。言葉は悪いが、いかにもステロタイプなオカマという感じ。これだよ、これ!なんである。
 しかし、もちろん達也はそんなことは口に出さなかった。どうやら相手は傷心らしいし、大きな拳でぐすぐすと眼の辺りをぬぐう仕草は、滑稽でありながらもなんとなく可愛らしい。
 普段、完璧な美貌の遥にちょっぴり緊張しがちな達也にとって、こちらの彼(彼女?)の精一杯、といった感じの女装姿は、どこか人間的といおうか、ほっとする部分があった。
 たぶんゲイバーとかその手の店の人間なんだろう、と思っていると、鼻をすすっていた男は不意に「ハンカチ」とつぶやいた。
「え?」
「ハンカチよ、ハンカチ。レディが泣いてたら、すっとハンカチくらい出してくれなくちゃ」
「……すいません、持ってません」
 困って自分の姿を見下ろした達也は、「あの、これで良かったら拭いてもいいですよ」と、かけていたエプロンの布地をつまんで前に差し出した。
 相手は少し驚いたようだったが、黙ってエプロンに手を伸ばし、そこにぎゅっと顔を押し付けるようにして涙を拭いた。薄いブルーの店のエプロンがどんなことになったかは、この際考えないことにする。そのまま顔を離すかと思いきや、男はしばらくそのままじっとしていた。
「大丈夫ですか?」
「……」
「あのう……」
 黙ったままの相手の肩にそっと手をかけると、表通りの方から不意に酔っ払いの大声が聞こえてきて、どきっとした。
 人気のない裏通りとは言え、ビルの出入り口だし、いつ誰が現れるかわからない。薄暗がりで女装の男と並んで座りこみ、おまけに相手は腹部のエプロンに顔を埋めているような格好である。さすがの達也も少々慌てて、強く男の肩を揺すぶった。
「あの、あのね、ちょっと立ちましょう。ここだとドアの邪魔になっちゃうし」
 ね、と自分も立ちあがりながら、相手の腕を引っ張る。相手は意外と素直にされるがままに立ち上がった。
 立つと改めて体格の差がはっきりし、おお、という感じで達也はちょっぴり後退った。
「だ、大丈夫ですか、もう、平気?」
 男は頷き、かすかに笑みを浮かべたようだった。
「ありがと。アンタ、やさしいのね」
 自分の父親のような野太い声だったが、まぎれもない感謝がこめられていたので、達也は思わずにっこりした。
「そんなことないですよ」
 非常灯の薄明りに照らされた達也の笑顔を、男は改めてまじまじと見やった。
「アンタ、ここで働いてるの?」
「あ、そうです。バイトですけど、ここの地下のピカドールで」
「ピカドール? 遥ちゃんのとこじゃない」
「そうですけど……遥さん、ご存知なんですか?」
 そりゃあね、と苦々しく笑う。
「このへんじゃ有名だもの。うちの店にも引きぬこうとして何度も声かけてるし。てんでなびかないけどね」
「店?」
 男は着物の胸元に手を入れ、しまった、名刺切らしちゃった、と呟いた。
「ゲイバーシャトー≠チていうのよ。アタシはそこのママ。向こうの交差点のビルだけど、知らない?」
 達也が正直にかぶりを振ると、男は、じゃあ連れてってあげる、と達也の腕を取った。
 いきなり腕を組まれた達也は慌ててそれを振り払おうとする。
「ちょ、ちょっと、えと、マ、ママさん! 困りますって」
「なによ、まだ仕事中なの?」
「いえ、もう終わりですけど、遅いですし、帰らないと」
「なーに、言ってんのよオ。まだ早いじゃない。お金のことなら心配しなくていいのよ。エプロン貸してくれたお礼にサービスするから」
「いや、すいません、ホントに。勘弁してください」
 達也は必死で抗った。だが案の定、相手はびくともしない。さっきまでめそめそしていたくせに、立ち直りが早いというか、けろりとして達也を引きずって行こうとしている。
「また今度、この次、この次お世話になります」
「この次?」
「え、ええ。日を改めて、また今度、是非遊びに行かせてください」
 立ち止まった大男は、いささか不満そうに、そうお、と首を傾ける。達也が、そうそう、と何度も首を縦に振ると「じゃあ入らなくていいから、店まで送って」と言った。
「マ、ママさん……」
「なつみ」
「へ?」
「な・つ・み・よ。アタシの名前」
「な、なつみさん……」
「だって、店の場所教えないと来てもらえないじゃない。すぐそこなんだし、いいでしょ」
 それでも達也がためらっていると、「ちょっとお、泣いてる女性をほっとく気なの?」と着物の袖を捲り上げる仕草をした。
 そこから覗いた二の腕のたくましさに震えあがった達也が、慌ててエスコートを承諾したのは言うまでもない。

 
 化粧の剥げた大男のオカマに繁華街を引きずられていく、という行為は思った以上に人目を引くもので、達也は恥かしさに道々ずっと顔を伏せていたが、当のなつみは至極ご満悦そうだった。
 シャトー≠フ入ったビルの前でもう一度しつこく店に寄るように誘い、達也ががんとして断ると、派手に手を振って見送ってくれた。
「絶対来てよ、達也君! 待ってるからね〜〜〜」
 道行く誰もが振り返るような大声を背に受けて、達也は名前を教えたのは失敗だったかも、と顔を真っ赤にしながらその場を離れた。
 なつみの言ったように、シャトーとピカドールは距離的に非常に近かった。彼がピカドールの裏口で泣いていたのは本当の偶然らしく、達也にとってはちょっとした不運だったかもしれない。
 ぼんやり歩いていたせいで、達也は無意識に裏口ではなく、店の正面に当たる表通りに戻ってきてしまった。はっ、と気づいたのは、ビルの入口に寄り添うような二つの人影を見つけたからである。
 それは庄司と遥だった。
 長身の庄司に、もたれかかるようにして遥が立っている。
 飲み屋や風俗関連の店が多いこの地域では、客とホステスのそう言った姿は珍しくもなかったが、それでも遠目にもぱっと目立つ二人だった。
 遥の美貌のせいもあるだろうが、二人揃ってずばぬけて背が高いのも人目を引く理由だろう。達也や他のホステスと並ぶとやはり骨格の良さが目についてしまう遥だが、庄司の横ではちゃんとつりあっている。
 こうして見ると普通の男女のカップルに見えるなぁ。
 なんとなく足を止めてしまった達也は、離れたところから二人を眺めて思った。
 二人はビルの入口で何やら顔を寄せてぼそぼそと話している。遥はこちらに背を向けているので達也からは長い黒髪しか見えない。
 向かい合っている庄司も達也には気づかないようで、遥の言葉に耳を傾け、時折何かを答えているようだった。
 お似合いだなー、と達也はぼんやり考えた。二人のツーショットは店内で何度も見たはずなのに、こうして外で見るとつくづくそれが実感として感じられる。
 先ほど送り届けたなつみと引き比べるわけではないが、庄司と遥という美男美女の組み合わせに自分との距離を感じてしまい、ほんの少し寂しくなってしまった達也だった。
「あ、ケース、置きっぱなしだったんだ……」
 早く片付けなくちゃ、ときびすを返そうとした達也は、視界の隅で庄司に顔を寄せる遥の姿を認め、思わずはっと顔を戻した。
 あ、キスした――。
 見間違えなんかじゃない、珍しく慌てたように体を離した庄司が口元を拭っていたのだから。
 ほんの一瞬のことだったので、他の人は気づかなかったのだろうか。周囲を見回した達也は、知らんぷりして行き交う人々を眺めながらそう思い、そしてすぐに考え直す。苦笑が浮かんだ。
 キスくらい。
 別になんてことはないんだった。
 一瞬でも驚いた自分がばかみたいだった。
 キスくらい、サービスするよな。遥さんはホステスだし、庄司さんは常連さんだもん。
 達也は今度こそその場に背を向け、足早に裏口へと向かった。

 
「なーに、そのエプロン!」
 空き瓶のケースを所定の位置に片付けた達也が控え室に戻ると、カナが廊下から顔を見せた。
「あーこれ、ちょっと汚しちゃって……ちょ、カナさん、こっち入ってこないでくださいよ」
「いいじゃん、きゅーけい。煙草吸わせてよ」
「あっちの部屋で吸ってくださいよ」
 固いこと言わないでよ、とカナはずかずかと男性用控え室に入ってきた。確か最初の日も同じようなことがあったが、他のホステスがそんなことをしているのは見たことがないから、やっぱり彼女が特別なのだろう。
「宮井さんがなかなか離してくれなくてさー、疲れちゃった」
「あの人、カナさんがお気に入りですもんね。でも優しそうだし、いいお客さんじゃないですか」
「宮井さんはいい人だよー。でも達也君と話すひまがなくてさー。ちょっと抜けてきちゃった」
 そう言って、いたずらっぽく、にこっと笑う。
 遥とは全然違うタイプだが、カナもかなりの美人である。長袖、ロングドレスで誤魔化している遥と違って、出ているところの出ている彼女は、露出度の多い服が多い。細すぎず太すぎずといった絶妙の脚線美は本人も自慢らしく、きわどいミニスカートを好んで身につけていた。少々口が悪いところがあるが、明るくてさばさばしているので、彼女を贔屓にする客も多いようだ。
 しかも遥と同じで達也と出勤日が重なることが多く、何かとちょっかいを出してくるところもよく似ていた。
 たぶん遥もカナも、物慣れない田舎者をからかってその反応を愉しんでいるだけだと思うのだが、悪気がないのはわかっているし、達也も男だから、綺麗なホステスにかまわれて悪い気はしなかった。
「本当に、どうしたの、そのエプロンのシミ。それってもしかして口紅じゃない?」
「ああ、うん……」
「どーして、そんなとこに付くの? 誰の口紅?」
 何となく詰問口調のカナに負けて、達也は仕方なく脱いだエプロンを手にしたままパイプ椅子に腰掛けると、シャトーのママとの出逢いを語った。
「あー、なっつみさんかー……」
「知ってるの?」
「知ってるよう。有名人だもん。去年の年末だったかな、失恋したとかで大酒飲んで交差点で暴れまわって、大変だったんだよう。あたしも皆と一緒に見に行ったんだー」
「……」
「じゃあそれ、なつみさんの口紅なんだー、派手な色だねぇ」
 カナは、達也が座った椅子の背後から両腕を回すようにして、エプロンに手を伸ばした。
「べっとり付いちゃってるじゃん、取れるかなー」
 呟きながら、わざとなのか無意識なのか、ますます達也に身を寄せてくる。
 肩のところにぎゅっと柔らかな胸が押し付けられて、達也は内心ひどく焦ってしまった。だが動くわけにもいかず、そのままじっとしている。
 本当にみんな、スキンシップが好きなんだよな――。
 だから自分が意識しちゃいけない、と思うのだ。ここの人たちは触ったり、触られたり、そんなことは何でもないことなのだ。
 キスも――。
「あのさ」
 気づいたときにはもう口にしていた。
「キスってよくする?」
「え?」
 なあに、という感じでカナが顔を覗きこんでくる。遥のものとは違う、フローラル系の香りが鼻先をくすぐる。
「お客さんに、サービスで、その」
「キスぅ? うーん、まあ、時々は。その場のノリとかで、軽いやつはねー。マジなのはあんまりしない。うちはそういう店じゃないからね、オーナーや乙名さんが嫌がるし」
「あ、そうなんだ」
 達也は答えながら、店の正面で見かけたシーンを思い出す。あれは軽いやつだったよな。一瞬だったし。
「なーに、あ、もしかしてなつみさんにされちゃった?」
「え、え?」
「あの人、キス魔だって噂だもん。奪われちゃったんだー」
 きゃはは、とカナが笑う。そして、ぐっと耳元に唇を近づけると、声をひそめて囁いてきた。
「口直しして、あげよっか」
「口直し?」
「キスしよっか、達也君。あたしと」
「え、えー!?」
 達也は慌てて椅子から立ちあがりかけた。だが、背後からぐっと首に腕をまわして押さえられる。
「いーじゃん、しよーよ」
「いやっ、いいです、おれじゃないから! おれのことじゃないから!」
 達也は必死になって叫んだ。かっこ悪いのはわかっているが、こんな、襲われるみたいなのは嫌だ。
「おれじゃない……?」
 カナの手がふっと緩む。
「じゃ、誰? 誰がキスしてたの?」
「庄司さんと遥さん」
 つるっという感じで言葉が口から滑り出てしまった。
「庄司さんと誰? 遥? うっそ。いつ、どこで?」
「えっと、店の外で。さっき……」
「……」
 カナは達也の首に背後から手を回したまま、黙り込んでしまった。
「……カナさん?」
 長い沈黙に、もしかしてまずいことを言ってしまったんだろうか、と達也は不安になってしまった。大したことじゃないと思ったからしゃべったのに。大体、さっきカナ自身も客にキスすることがあると言ったではないか。
「あの、カナさん……?」
「……とうとう、達也君にもばれちゃったか」
 カナがぼそりと呟いた。背を向けているせいで、彼女の表情はわからない。
「何を?」
「あの二人、つきあってんの」
「つきあう? 二人って庄司さんと遥さん? …………ええーーーっ!?」
 達也は今度こそ椅子から飛びあがった。
「つきあうって、あの、その」
 慌てたように、カナに向き直る。その様子にカナはちょっとだけ眉をひそめ、あっさりと頷いた。
「恋人同士ってこと」
「うそ――」
 達也は無意識に呟いていた。別に本当にカナの言葉を疑ったわけではないが、思わず口に出てしまったのだ。
「嘘じゃないって。だってキスしてんの見たんでしょ」
「だって、その、軽いやつでしたよ。カナさんがさっき言ってた、お客さんにするやつみたいな」
「あっ、そうなの? でも本当だよ。おおっぴらにはしてないみたいだけどね」
 達也は驚きのあまり床に落としてしまったエプロンをじっと見下ろした。青い布地にべったりとついた油染みを眺め、それから気づいたように顔を上げる。
「えっと、遥さんて、男だよね。もしかして庄司さん、それ知らないのかな」
「ばっか」
 カナは呆れたように両腕を組んだ。
「恋人で知らないハズないでしょ。庄司さんはゲイなの。けっこう見てればわかるじゃん」
「ええっ!?」
 達也はさっきから叫んでばかりいる。
 あの庄司さんが? ハンサムで、落ち着いていて、いかにもエリートサラリーマン然としたあの人が?
 信じられない……。
「あの、遥さんも……?」
「遥は知らないけど……でもあんなナリしてるんだからその傾向はあるんじゃないの?」
 達也は本気で頭がくらくらしてきた。片手で頭を押さえる。
 だが、そんな彼にとどめを刺すように、カナはとんでもないことを口にしてきた。
「あのね、達也君、気をつけた方がいいよ。遥のシットは怖いから」
「へ? 嫉妬? なんで?」
 あーあ、これだから達也君は、と言いながら、カナは腰をかがめて床のエプロンを拾い上げた。
 意外に慣れた手つきで綺麗に折りたたむと、そばのテーブルの上に置く。
「あんまり鈍感なのも考えものだよ」
「鈍感……」
「庄司さんとあんまり仲良くしない方がいいってこと」
「はあ? ハア?」
 さっぱりわけがわからない。自分はもしかして、本当に頭が悪いんだろうか。
「庄司さんさー、最近達也君がお気に入りだから。いっつもカウンターの達也君の前の席に座るじゃん」
「うん」
「そしたらすぐ遥が来るでしょ」
「うん」
「機嫌悪くない?」
「……そう言えば……」
 達也は、庄司が自分と話しているときのどことなく面白くなさそうな遥の顔を思い浮かべた。
「つまり、遥は達也君にシットしてるの。庄司さんを取られちゃうんじゃないか、って」
「ええーーーーーーっっっっ!?」
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