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ピカドール
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「あ……」
 出勤時間に遅れたため、急いで着替えて店内に入った達也は、カウンターに陣取った面々を見て、一瞬足を止めた。
 ピカドールはもともとそれほど客の多い店ではないが、開店直後は、これで大丈夫かと思うくらいしばらく閑散としているのが普通である。そんな時間はたいてい乙名やホステスとおしゃべりをしながらグラスを磨いたり、酒の作り方を教わったりしながら過ごしていた。
 達也はちらりと腕時計に視線を落とした。
 まだ七時前。それなのにこれはどういうことだろう。
 カウンター席に鎮座ましましているのは、こちら側から順に、お馴染みのチャイナドレス姿の遥――これはわかる――、珍しく物憂げに片肘などをついた庄司、そして逞しい体を派手な帯でぎゅうぎゅうに締め上げているなつみだった。
 自分を見て一様に顔を輝かせた三人に、達也は思わずその場で硬直した。
「やあ、良かった。もっと遅くなるかと思ったよ。脱線事故だって?」
 いつもと変わらないほのぼのとした笑みを浮かべてカウンターに入っていた乙名がこちらを向く。大柄な三人のせいで、彼はいっそう小柄に見えた。
「あ、遅れてすみません」
 達也はあわてて謝った。
「いいよ。電車事故じゃ不可抗力だし、ちゃんと電話をくれたしね。それよりちょっとここを任せてもいいかな。どうやら皆さん、きみをお待ちかねだったみたいだしね」
「えっ、ええっ」
 達也の背中をたらっと冷や汗が伝った。こんな早い時間帯からこの面子。嫌な予感は気のせいではなかったらしい。
 視線をちらりと向けると、無邪気なのからどことなく禍禍しいものまで、申し合わせたような笑顔がそれに応える。
 祭壇に引き出される生贄のようにびくびくと、それでも否やを言えるはずもなく、達也はおとなしく乙名と交代してカウンターに入った。
「しばらくだよね」
 最初のジャブを放ったのは意外にも庄司だった。
「あ、そ、そうですね。ちょっと田舎に帰ってまして」
「ふうん、休みは取らないようなことは言ってなかったっけ」
 指先をこみかみにあて、軽い上目使いでたずねてくる。やさしげな顔はいつもと変わらないが、妙な迫力があって、達也は思わず視線を泳がせた。
「あ、ええとそのつもりだったんですけど、親から帰ってこいって電話をもらっちゃって……」
「ふうん」
 う、嘘は言ってないぞ、と見えないところで軽くこぶしを握る。
「でも、その前からだったよね。あんまり僕の相手してくれなくなったのは。話しかけても生返事だし、すぐ別の客のところに行っちゃうし」
「そ、そんな。気のせいですよ。たまたま忙しかったんだと……」
 達也の額にぶわっと汗が吹きだした。
「へええ、それじゃあたしも気のせいだったのかしらね。控え室で二人っきりになるのを避けられたり、さり気なくシフトをずらされたりしたのは?」
 同じ従業員としてフォローするつもりはまったくないらしく、遥が嫌味たっぷりに口をはさんできた。
「そ、そんな……」
 口ごもった達也は、しばらく顔を真っ赤にしてうつむいていたが、やがていさぎよく、すみません、と頭を下げた。
 ホステスである遥はともかく、客である庄司に不快な思いをさせたのはまずかったと思う。露骨にしたつもりはないが、二人を避けていたという点については十分に自覚のある達也だった。
「そんな風に謝られてしまうと困ってしまうな。自分が大人気なく思えてくるじゃないか」
 庄司は苦笑して、カウンターについていた肘をはずし、手元のグラスを押した。
「お代わり作ってくれる?」
 達也はホッとしてうなずき、庄司がキープしているスコッチウィスキーのボトルに手を伸ばした。
「あーあ」
 それを見て遥がため息をつく。
「まったく、すぐいい人ぶろうとするんだから。こないだまで愚痴をこぼしてたのは誰よ? 嫌われたんじゃないかってさんざんくだ巻いてたくせに」
 庄司はハンサムな顔をわずかに染めたが、思い直したように顔を上げた。
「そうだな。確かに何か理由があるなら聞いておきたい気がする。僕らが何か達也君の気に障るようなことをしたなら言ってくれないか?」
 達也は、とんでもない、とぶるぶる顔を横に振った。
「庄司さんが何かしたなんて、そんなことないです。ただ、ちょっとその、私生活の方で面白くないことがあったんで、八つ当たりというか……本当にすみません」
 カナから、庄司と遥が恋人同士だと聞いたことを、ここで言うわけにはいかなかった。あれ以来、自分が二人を意識せずにはいられないということも。
 夜中にベッドで暗い天井を見上げていると、店の入口で寄りそい、キスをしていた二人の姿がふいに浮かんで、わーっと叫びだしたくなる。なぜそんな気持ちになるのかを考えるのも怖くて、達也はひたすら二人から逃げまわっていたのだった。
 カナに指摘されてみると、確かに自分と庄司が話しているとすぐに遥が割りこんでくる。ぱっと見にはあくまでも美男美女であるせいか、二人が男同士であることはさほど抵抗はなかったが、そこに自分が絡んで嫉妬される≠ネどという事態にはいたたまれない達也だった。
 おとなっぽく世慣れた庄司と、迫力のある美貌の遥。それに比べて、あくまでも平凡な、取り柄のない自分。誰が誰に嫉妬するのか、されるべきなのか、考えるだけで頭がぐちゃぐちゃになりそうになる。
 今も意味ありげに視線を交わす二人を見て、達也の胸がかすかにうずいた。
「ねぇ、そっちの話は終わったのぉ?」
 野太い声がして、達也ははっとそちらを見た。
「だったら今度はアタシの番。達也君、アタシにも久しぶりくらい言ってくれてもいいんじゃないの?」
 丸太のような体をかわいらしくくねらせて、シャトー≠フママ、なつみが分厚い唇を尖らせた。
「あ、すみません、いらっしゃい、なつみさん。でもこんなところにいていいんですか? お店はお休み?」
「休みなわけないでしょ? さぼって来てんのよ。だって達也君、約束したのにちっとも来てくれないんだもの。先週思いきって訪ねてきたら休んでるって言うし。遥ちゃんにきいて出勤日を確かめてもらったのよ」
 ぷりぷりしながら言って、なつみは、熊が野の花でも摘むように、「アタシもお代わり」と大きな手で華奢なカクテルグラスをつまみ上げた。
「あ、えーと……」
 達也は困ったように店の奥に目をやった。もともとこの店でショートカクテルを頼む客などほとんどいないので、まだあまり上手に作れないのだ。
 乙名を呼ぼうかためらっていると、「あたしがやるわ」と席を立った遥がカウンターに入ってきた。
 無理をすれば擦れ違えるだけの隙間はあるが、それには体を触れ合わせなくてはならない。達也はこれで、チャイナドレスの長身で出口をふさがれたような形になった。
 なつみの注文を聞いて慣れた手つきで遥が材料をそろえ、シェイカーを振り出す。
 相変わらず他の客が姿を現す気配もなく、達也は文字通り三人に囲まれたまま相手をさせられた。
 それでもなつみが多少大げさに最近の失恋談を語り出すと、いつのまにか居心地の悪さは消えて、四人は仲のよい友人同士のように顔を寄せ合っていた。
 この仕事に慣れ始めた達也はもちろん、ホステスである遥も客の愚痴に耳を傾けるのが仕事であるし、庄司も意外に聞き上手で、タイミングよく相づちをはさみながら頷いている。
 達也は適度に庄司のグラスを満たしてやり、遥はいつのまにか、勝手にそのお相伴に預かっていた。
「まあね、結局は忘れなきゃダメだって言うのはわかってんのよ。もう長野に帰っちゃったんだし、しょせんは家庭持ちだしねェ」
「ああ、妻子持ちはつらいね」
「つきなみだけど、新しい男を見つけなさいよ。失恋の痛手は新しい恋で癒すしかないって言うじゃない」
「でもねぇ、忘れられないのよ。本当に好きだったのよ。いい人でねぇ。金払いはそんなによくなかったけど、着物でも新調しようものならすぐに気づいてくれて、ママ似合うね、なんて……」
 ぐすっと鼻をすすり上げたなつみが、流れはじめたマスカラを着物の袖で拭おうとしたので、達也はあわてておしぼりを差し出した。
「どうしたら、忘れられるのかしら。つらくてつらくて。タカさんがいなくなっちゃったことよりも、忘れられないことがつらくて。もうアタシはどこにも行けないんじゃないかと思っちゃうの」
 うつむいた丸い肩に、達也は胸をつかれた。男でも女でもオカマでも、傷つく心には変わりはない。受験の失敗でも失恋でも、挫折をのりこえようとあがく必死さは皆同じだった。
「おれは海を見に行くんです、そういうとき」
 思わず口に出していた。
「海? それでバカヤローって叫ぶの?」
 軽く馬鹿にした口調の遥をキッと睨むと、相手はわずかに驚いたように綺麗な目を見張った。
「ちがいますよ、これで終わりじゃない、海じゃ終わらないって思うんです」
「海じゃ終わらない……?」
 出会ったときと同じ、涙で化粧の剥げた顔に、達也は力づけるようににっこりと微笑んだ。
「そうです、あのね、昔テレビが何かで見たんですけど、日本人はどこからやってきたか、という説の一つに、朝鮮半島から船で来たっていうのがあるんです」
 突然変わった話題に目を白黒させる三人を放っておいて、達也は続けた。
「大陸を移動してきて半島の先端で海岸にたどりついたとき、ああ海だ、ここで終わりだって思った人間と、まだ先があると思って船で乗り出していった人間がいるってことでしょう。
 その説が正しいかどうかはおいておいて、それを聞いたとき、おれ、すごく元気が出たんです。実はおれ一浪してて。絶対大丈夫だって言われてた大学に落ちてついでに失恋したとき、やっぱりなつみさんみたいに、どこへも行けないんじゃないかって思えて、すごく苦しかったです。
 目の前がまっくらになって、二度と明るい気分になんかなれないんじゃないかって、それが怖かった」
 達也はかすかに照れたように視線を落とし、また上げた。
「でも、海に行って――もちろんおれの田舎は九州でもないし、太平洋側だから近くに陸なんてどこにもないけど、でも、おれは海を前にしても諦めずに新天地をめざした奴らの血を引いてるんだって思って。
 今はここで終わりみたいに見えるけど、本当は違うんだ、海なんかじゃ終わらない、絶対に先が開けるんだって自分に言い聞かせたんです」
 だから、と、達也は思いきって腕を伸ばし、自分よりはるかに大きななつみの手を握った。
「元気出してください。今はつらくても、絶対に明るい未来が来るって信じて」
 見つめ合っていたのは、そんなに長い時間ではなかった。隣で「うわ……殺し…」とかなんとか、ぼそりとつぶやく声にハッとすると、目の前のなつみは目をうるうるさせているし、気づけば庄司も惚けたような顔を向けている。
 やばい、一人でしゃべりすぎた、と気づいた達也は、あわてて手を放して身を引こうとしたのだが、ガッと手首をつかまれ、反対にカウンターから引きずり出されるよう格好になった。
「うわっっ」
 瞬時に気になったのは自分の体で倒されたグラスとこぼれた酒。そのせいで何が起こったのかはすぐにはわからなかった。
 唇の上に押し当てられた、温かな感触。まさか――。
「ぎゃーーーっ」
 悲鳴は達也の口からではなく、カウンターと内と外と、両方で上がった。
「なにすんのよっっ」
 背後から肩を掴まれ、ものすごい勢いで引き戻される。その拍子にバックバーのどこかに思いきり頭をぶつけた。
「あんた、ネコじゃなかったのっっ」
「達也君ならタチでもいいわ。この子はアタシの王子様よッ」
「勝手なことを〜っ」
「あっ、ちょっと達也君、大丈夫かい!?」
 頭の上でぎゃんぎゃんとわめく声を聞きながら、達也は気が遠くなっていくのを感じていた。
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