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最後のラン
-3-



 問答無用で警棒で殴りかかるような輩がただの痴漢であるはずがない。
 だが肝心の男は何もしゃべらず、千恵も京一も見覚えがないと繰り返すばかりなので、すでに時刻が遅かったこともあり、詳しい話はまた明日ということで、二人は家に帰された。
 さすがに疲れた様子の兄妹といっしょに萱野宅の前でパトカーを降り、内藤は運転席の警官に手を振った。
「一応安全を確かめてから帰るから。俺の家は近いから心配しなくていい」
 京一から鍵を借りて先に入り、広くもない家の中を一通り確認してから玄関で待っていた二人を促した。
「お風呂入りたい……」
 居間のこたつの脇にかばんを放り出して千恵が唇をとがらす。
「今から沸かすと一時間はかかるぞ」
「じゃあ、シャワーにする……」
 汚れたマフラーを悲しそうに見つめ、千恵は「あー、また膝すりむいちゃった……」と呟きながら廊下へ続くドアを閉めていった。
 狭い部屋で二人きりになったとたん、内藤は「それじゃ、俺も帰るか」と呟いた。
 何も怖いものなどないと感じたあのときの高揚感が嘘のように、今の内藤は再び意気地のない中年男に戻っていた。
「今、お茶を入れますから飲んでってください」
「いや、いいよ、俺は……」
「待ってて。話したいこともあるし」
 強い口調に顔を上げたが、京一はすでに背を向けてこんろに向かっていた。
「シチューあるんですけど食べます? 作ったのは千恵ですけど、けっこういけますよ」
「いや、俺はね……」
「内藤さん、好きだったでしょ、母さんの料理」
「京一くん」
「それとも好きだったのは母さん? 千恵がそう言ったとき、否定しなかったよね」
「京一くん、勘弁してくれ……」
 ついに内藤は諦めたようにその場に座りこむと、弱々しい声を出した。
 京一が振り向いてこちらを見る。
「内藤さん、何を怖がってるの? 俺は長い間、ずっと気がつかなかったよ。あなたが怖がっていたこと……」
 やかんの火を消すと、京一はこたつに近づいてきて、内藤のすぐそばに腰を下ろした。
「四年前、突き放されたのは俺の方だったよね? 俺はショックでずいぶん傷ついたけど、もしかしてあのときも怖がっていたのは内藤さんの方だったんじゃないの?」
 京一の口調は穏やかだったが、そこに秘められた決意を敏感に感じ取り、内藤は深く俯いた。
 怖がっているという彼の言葉は本当だった。
 内藤はいつも恐れていた。京一の若さと強さと、己の欲望と、時間のスピードを……。
「今日駅で俺が言ったこと、覚えてる? 卒業したら会いにいくつもりだったって。俺は早く社会人になりたかった。本当は大学にも行かないつもりだったけど、母さんが進学させたがっていたから、約束を破るわけにはいかなかった。なぜそんなに早く一人前になりたかったか、わかるよね? 学生でなくなれば、あなたが対等に見てくれると思ったからだよ」
 京一はこたつの上に力なく置かれた内藤の手を握ってきた。
 内藤はとっさにそれを振り払い、尻で後ずさって白いものの混じった頭を下げた。
「京一くん、すまない、すまない! 許してくれ」
「何をあやまるの? なぜそんなに俺を避けようとするの?」
「きみを……きみをこんなふうにしてしまって。俺のせいだ。俺があのとき……」
 芙貴子の通夜の晩、自分が衝動にまかせて京一を抱きしめてしまったことを、内藤は何度も何度も悔やんだ。あの夜が京一を歪めてしまったのだと思うと、己の罪深さに二度と彼とは会えないと思った。
「内藤さん……」
 京一が軽くため息をつく。
「またその話ですか? 確かにきっかけにならなかったとは言わないよ。おかげで俺は自分の気持ちが確認できたんだしね。でもね、こっちにスイッチがなかったら、いくらボタンを押したって明かりは点きやしないんだよ。わかる? 俺はもうあのずっと前から、あなたのことが好きだったんだから」
 京一は膝で内藤の方ににじり寄った。
「告白するにはそれから半年かかったけどね。ありったけの勇気を書き集めて好きだって言ったのに、子供だからって撥ねつけられておれは――」
 突然背後でがたがたっと音がして、京一は言葉を切った。内藤もぎょっとして部屋の入口を見る。
 そこにはブラウスのボタンを半分はずしたしどけない格好の千恵が、脱いだ靴下を片手にドア脇に転がっていた。
「ち、千恵ちゃん!?」
 慌てている内藤の目の前で、下着が覗いているのもかまわず、千恵は飛び起きて叫んだ。
「ちょっと、今の話ほんとう!? オサムちゃんが京ちゃんをふったの? その逆じゃなくて!?」
「千恵、今の話を……」
「だって石鹸がなくて、どこにあるか聞こうと思って戻ったら、おかしな雰囲気だから……」
「立ち聞きしていたな」
「勝手に聞こえたんだもん! それより、ねえ、本当なのっ? オサムちゃんが京ちゃんをふったの? ねえっ!」
 細い眉を吊り上げて詰め寄る千恵の迫力に内藤がたじたじになっていると、そばで京一が少しばかり意地悪そうに言った。
「そうだよ。俺が高三のとき。好きだって言ったんだ。この部屋でね。それでふられた」
 千恵が信じられない、と目を丸くした。
 内藤は片手で顔を覆った。
 そうだった。
 四年前、この部屋でこれからのことについて相談に乗っていたとき、内藤はとつぜん京一から告白を受けたのだった。
 半年前の自分の愚かな行為は無かったことにできたのだと思いこみ、安心していた矢先のことだった。
 何度も繰り返される悪夢のうち、その始まりだけは本当にあったことだった。
『内藤さん、好きです――』
 震える小さな声の記憶は、いつも罪悪感を連れてきたが、同時に忘れられない、大切な思い出ででもあった。
「オサムちゃんが京ちゃんをふるなんて許せない! 京ちゃんのどこが気に入らなかったのよ!」
 兄に気があるそぶりを見せたというだけでウェイトレスを睨みつけていた千恵である。かなりブラコンの気のある彼女にしてみれば、冴えない内藤が京一を袖にするなど、沽券に関わるのだろう。
「いや、気に入らないってわけじゃなくて、その……」
「内藤さんはね、俺が子供だからって言ったんだ。親子ほども年が違って、しかも高校生の俺なんか、とても受け入れることはできないって……」
「そんなの……」
 ひどい断り方だよね、と京一は苦笑いを見せた。
「おまえなんか嫌いだって言われた方がまだマシだったかも。中途半端に突き放されただけじゃ、こっちだって諦めきれない。余計な期待を抱くよ。子供じゃなくなれば、こっちを向いてくれるんじゃないかって。同じ社会人になれば、受け入れてくれるんじゃないかって」
「きょ、京一くん、もしかして卒業したら会いにくるって、まさか……」
「そう。あ、誤解のように言っておくけど、もちろん最初は忘れようとしたんだよ。他の人とも付き合おうとしたしね。でもいつも駄目だった。俺もたいがいしつこかったみたいだ……」
「ひどい!」
 唾を飛ばして叫んだ千恵は半分涙目になっていた。
「オサムちゃん、ひどいよっ! それじゃ、あんなにもてるのに京ちゃんが決まった恋人を作らなかったのは、オサムちゃんのせいなの!? 中途半端に京ちゃん縛り付けて、何年も……!」
 ――わたしの三年間を返して!
 突然、内藤の脳裏に別れた妻の言葉が蘇った。わたしの若い時間を無駄にした、そう言って責めた彼女の言葉を思い出す。
 もしかして、俺は京一にまで同じことを……?
 内藤が愕然としたとき、「千恵」という静かな声が妹を遮った。
「千恵、それは違う。おれの時間はおれのものなんだから、内藤さんがそんなことまで責任を取る必要がないんだ」
「だって、京ちゃん!」
「千恵、本当だ。俺が好きで、勝手に忘れられなかっただけなんだから、これ以上内藤さんを責めたら俺が許さないよ」
「京ちゃん……」
 京一の口調は揺るぎなかった。
 そこには「後悔しない」と告げた、あの母親の言葉と同じ響きがあった。その強さは内藤の心の底に確かに届き、長い間あがいていた泥沼から、少なくとも一歩、連れ出してくれた。
「それに、過去のことなんてどうでもいい。俺が大事なのはこれからのことだ。今、内藤さんが俺を受け入れてくれるかどうかなんだ」
 妹の前でためらいもなく、京一はもう一度内藤の手をとった。
「内藤さん、好きです。変わってしまったように見えても、俺は変わらない――変われなかった。ずっとあなたが好きで、振り向いてくれるのを待ってる。来年には社会人になる。断る口実は一つ減るでしょう? あとは年齢だけど、これだけは俺にもどうしようもない。あなたが譲ってくれるしかないんだ。こんなに年が離れて、嫌かもしれないけど、そこは我慢してくれませんか? 俺のために……」
 千恵がごくりと唾を飲んで、成り行きを見守る。
「京一くんは……俺を父親のように思ってるだけじゃないのか? 小さい頃別れたお父さんの代わりに……」
 内藤がまだ思いきり悪くぐずぐず言うと、京一は鼻で笑った。
「父さんと? 俺は小さかった千恵と違って父親の記憶はちゃんとあるんです。誰があんなろくでなしの代わりが欲しいもんですか。それに」
 瞼にかぶさる長い前髪を顔を振って後ろに払い、付け加える。
「別に内藤さんじゃなくたって、しつこく迫ってるくる教授とか、他におやじ候補はいくらでもいるんです」
「なんだって!」
「京ちゃん、それ、本当なのっ」
 そう言えば院に来いと強く勧めてくる教授がいるって、まさかそいつのことじゃないだろうな。
 内藤の焦った顔を楽しそうに眺めてから、京一は表情を引き締めた。
「本当にわからない? 俺の気持ち。あなたを好きだっていう俺の気持ち、全然わからないの?」
 内藤は首を振った。もう降参だった。
 京一の言う「気持ち」には、嫌というほど心当たりがあった。
 父親としてではない、恋人として抱き合うことを夢想する気持ち。
 いけないとは思いながら、心のどこかで想いの成就をずっと願っていた気持ち。
 ――神様。
 内藤は目を閉じた。
 あんた、こんなオジサンの恋を叶えたりしている場合なのか。
 初恋に幼い胸を焦がしている中学生とか、悪質商法に引っかかってなけなしの金を巻き上げられた八十の婆さんとか、あんたがお願いを聞いてやらなければならない人は、他にたくさんいるだろう。
 俺が、この手をとってしまっても、本当にいいのか?
 だが今さら駄目だと言われようと、内藤はもう引き返すつもりはなかった。この機会を逃がせば今度こそ大事なものを失ってしまうだろうという恐れが、弱気な彼の心を後押しした。
 腰が抜けたように座りこむ千恵の目の前で、内藤はゆっくりと京一の指を握り返した。


「えー、ねえねえ、じゃあオサムちゃんが京ちゃんの恋人になっちゃってこと!? ヤだよう、なんかヤだよう!」
 三人そろってこたつでシチューを食べている間、千恵は心底嫌そうに何度も繰り返した。
「なんだ。今さら」
「だってだって、きれーでやさしいお義姉さんは? あたしのパラサイト計画は? だいたい相手がオサムちゃんじゃ誰にも自慢できないじゃん!」
 スプーンを振りまわす千恵の頭を、京一が叩く。
「なんで俺の恋人をおまえが自慢する必要があるんだ。自慢したかったらおまえがそういう相手を捕まえろ」
 だってだって! と千恵が喚く。
「京ちゃんのことは友達みんなに自慢しちゃってるもん。かっこよくて頭よくって、それなのにこんなオジサンとくっついちゃうになんてェ。京ちゃん、男でもいいから、もっと若いのにしようよ。なんなら紹介してあげるからさぁー」
 ゴン、と今度こそ本気で痛そうな音がした。
「イタイ〜〜!!」
「ばか、痛くしてんだ。いい加減そのばかな口ふさがないとひどいからな」
「京ちゃんのばかばか〜。ホモ〜。オジン趣味〜!」
 こたつを抜け出した千恵が、逃げた台所の隅から叫ぶ。
「おまえこそなんだその髪の色! 学校にマスカラ塗りたくって行くな! よくそんなアッタマ悪そうな格好できると思って、俺はそれが信じらんないよ」
 京一が負けずに言い返す。
 こんなオジサンでごめんな〜、と謝るわけにもいかず、黙って二人の言い合いを見守っていた内藤だったが、昔からおとなしいばかりだと思っていた京一の意外な一面に目を白黒させる。
「なにさっ、京ちゃんのええかっこしい! 昔からオサムちゃんの前では妙にいい子ぶってると思ってたら、やっぱりそうだったんだー、この猫っかぶりー!」
「かぶれる猫があるだけ、おまえよりマシだ!」
 顔だけでなく、実は性格もけっこう似ているんじゃないだろうか、この兄妹は……。
 ――というより、芙貴先輩の子供なんだよなァ。
「なに?」
 ため息をついた内藤に気づいて、京一がこちらを覗きこむ。
「いや、京一くんとこんなことになったって知ったら、芙貴先輩に殺されるな、と思って……」
 そんなの、と京一は笑った。
「あの世で母さんに会うのなんかお互いまだまだ先でしょ。報告はもっとずっとあとでいいよね」
 完璧なパーツの中でも最も官能的なカーブを描く唇の端を上げ、京一は悲鳴をあげる千恵に見せつけるように顔を寄せ、囁いた。
 年齢差なんかわからないほど、お互い年をとってからで……。



 二人を襲った男は専門学校生で、千恵にふられた腹いせだということがわかった。その前に彼女を襲ったのもやはり彼だった。
「おまえ、見覚えないって言ったろうが」
「本当だもん〜。知らないもん、こんな男!」
 よくよく話を聞けば、確かにろくに話をしたこともなく、男が勝手に思いこんでいたことが判明したが、いくら悪くないと言っても騒動の原因を作ったのは千恵だということで、京一は門限を一時間繰り上げた。
「ひどい〜オサムちゃん、何とか言ってぇ〜」
 最近千恵は内藤を味方につけることを覚えた。わざとらしく甘えてくる千恵はそれなりにかわいいが、どちらかというと恋人の機嫌を損ねる方が怖い内藤は、知らぬ顔をして中立の立場を守っている。
 強姦歴のある本当の痴漢の方は、しばらくして別件で逮捕された。

 よく晴れた休日、隣町の大きなショッピングセンターの前で、内藤は二人を待っていた。
 祖父の家に顔を出してくるという兄妹といっしょに買い物をする約束だ。
 京一との仲をしぶしぶ認めた千恵は、最近内藤のイメージチェンジに張りきっている。まず許せないのはやっぱりその靴だというので、今日はさんざん引っ張りまわされそうだ。もしかしたら何かねだられるかもしれないので、内藤は出たばかりの給料を銀行でおろしてきていた。
 恋人と待ち合わせているのだろう若者たちに混じって、煙草を片手に所在なげにしていると、通りの向こうから二人が仲良く腕を組んで現れるのが見えた。
 まだこちらには気づいていない。
 二月にしては暖かく、上着を脱いで片手にかけた京一も、相変わらずのミニスカートに厚底ブーツの千恵も、こうして見るとそれほどちぐはぐなカップルでもなく、やはりひときわ目だって輝いている。
 その若さを思うたび、胸の奥に痛みが走るのは、もうしかたない。
 年齢差を怖がっていた内藤の小心を見抜いた京一ではあるが、彼の本当の不安に気づくことはたぶんないのだろう。
 二十歳そこそこの青年には決して理解できないことが確かにあるのだ。
 内藤がためらったのは、まだ長い京一の将来を束縛してしまうことだけではない。彼を歪めて自分に縛り付け、結局無駄だったと後になって妻と同じように罵られるのは、確かに怖かった。
 だがもう一つ、内藤が恐れていたのは、時間のスピードだ。
 京一と内藤の時間は流れる速さが違う。
 若い者は情熱も大きいが、好きになるのも飽きるのも早い。内藤も若い頃はそうだった。
 一方自分は京一を好きになるまで、気の遠くなるような時間がかかっている。気持ちを素直に認められるようになるまで、さらに四年間。
 この年になると、自分を変えてしまうような恋愛からは、無意識に逃げを打つものだ。
 京一の心は内藤よりはるかに先へ進む。ガタのき始めたこの足では追いつけないスピードで。
 だが、もういいと思うのだ。それでも諦めたくないと思う自分が確かにいるのだから。
「オサムちゃん!」
 内藤の姿に気づいた千恵が無邪気に手を振る。つられてこちらを見た京一が嬉しそうに目を細めた。
 内藤も煙草を持った手を軽く上げて応えた。
 別れた妻は元気だろうか。あれから再婚して子供もできたという話だが、内藤と無駄にした時間を取り戻すことができただろうか。
 四十を過ぎて、自分はきっともう二度とこんなふうに誰かを好きになることなんてない。それなら最後に思いきり走ってもいい。
 この不恰好な革靴など邪魔になるなら脱ぎ捨てて、大切なものを手に入れるために走ろう。
 息切れがして、顎が上がって、汗をかいて、抗菌靴下一枚のみっともない姿になっても、京一はきっと笑って待っていてくれるだろうと思うから。
【終】

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