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最後のラン
-2-





 内藤さん、好きです、好きです……。
 かぼそい声が必死に訴えてくる。
 内藤は躊躇なくその体を抱き寄せ、畳の上に引き倒した。
 学生服を剥くと、細い裸体が現れる。見る者によってはただの未成熟な少年の体だったが、内藤にとっては無垢でありながら多弁な肉体だった。
 肢の間に、柔らかな恥毛に包まれた性器がうなだれている。
 内藤が手に取ると、それは持ち主同様、震えてすすり泣きを漏らした。
 内藤さん、好き――。
 細く小さな声が繰り返す。
 暗がりの中に、彼は白く殉教者のように力なく仰のいている。
 俺も、きみをずっと見てきた。ずっと好きだった。
 その言葉が免罪符のはずだった。
 それで何もかもが許されると思いたかった。
 抱けば壊れてしまいそうな、まだ子供の体。だが内藤はためらいもせず、震える体を拓こうとした。
 固く張り詰めたそれを、小さな入口にあてがう。そのまま欲情に任せて腰を押し進めようとして、内藤はぎくりとした。
 自分の下で貫かれようとしている少年は、いつのまにかおとなの、青年の体になっていた。
 何もかも見とおすような聡い目が、眼鏡の奥からじっと見返している。そしてそのガラスには、大汗をかいて不相応な若い肉体を犯そうとしている自分の姿が映っていた。
 内藤は呻き声をあげて、体を離そうとした。
 だが、彼の性器は現実にはありえない柔らかさに迎えられ、ずぶずぶと温かく湿った道に沈みこんでいった。駄目だ駄目だと思うのに、固く勃起してぬかるみの中を突いていく。
 気づけば、内藤はペニスそのものになっていた。
 持ち主が必死で引き剥がそうとするのに抗い、彼は痛いほど熱いどろどろのマグマの中で、ここを出たくないよう、と泣き声をあげるのだった。



「内藤さん」
 背後からかけられた声に、内藤はぎくりとして振りかえった。
 よりによって、いい年をしてあんな夢を見た翌日に京一と再会するとは、運の悪いことはなはだしい。
 現実には起こらなかったことだからといって、なんの言い訳にもならない。
 いや、夢だからこそ性質が悪い。それは自分が年月を経てもまだ、目の前のこのきれいな青年と体を繋げたいと望んでいる証拠なのだ。
 忘れてしまいたい、自由になりたいと願う枷にいつまでも捕われてるのは本当に苦しかった。
「や、あ…京一くんも今帰りかい」
 そういえば普段はコンタクトレンズだと言っていた。ガラス越しでない視線がやさしくこちらに注がれる。
「ええ、同じ車両だったんですよ。満員で離れていたんで、声はかけられませんでしたけど」
「そうか、気づかなかったよ」
 京一は内藤と並んでホームの階段を上りながら、「気づかなかったのは今日だけじゃありませんよ」と笑った。
「え?」
「俺の大学は警察の二つ先で乗り換えです。今まで何度も同じ電車に乗り合わせましたよ。無視されているのかと思ったけど、この間の会話で本当に気づいてなかったんだってわかって……ホッとしました」
 京一の口調は穏やかだったが、ちらりとこちらに投げられた目つきに、内藤は一瞬返事に困った。
 今日の京一はジーンズ姿にデイパックを背負い、先日よりもカジュアルな格好をしていたが、その分ますます自分との距離を感じさせた。
「でも、今日は乗ってくる駅が違いましたね」
「ああ、仕事が一段落ついたんでね、ちょっと道場に寄ってきたんだ」
「道場って柔道の? 内藤さん、まだやってたんだ」
「やってるってほどじゃないが、たまにね。年よりの冷や水だが体がなま……」
 ふいに京一の手がコートの上から内藤の二の腕を掴んだ。
 ちょっと力をこめてみてから、「ああ、だから」と京一は何でもなさそうに言って手を離した。
「だから内藤さんはいつまでも若いんですね。逞しいし」
 内藤は今度こそ絶句した。
 京一はなんのつもりだろう。いや、何のつもりもないのか。
 意味ありげなことを言ったり、触ったり。
 きっと彼にとっては何でもないことなのだ。四年前のことなど、忘れてしまったのだろう。しょせん京一も、内藤にとっては理解不能な今時の若者の一人なのだ。
 だが、こちらは意識せずにはいられない。
 改札を抜けたところで、北口のスーパーに寄っていくからという口実をもうけ、真っ赤になった内藤は草々に京一と別れた。


 何度も同じ電車になると言った言葉を証明するかのように、その三日後、内藤は再び車内で京一と出会った。
 今度は乗りこんですぐ、内藤の方が先に京一を見つけ、どうしようか迷っているうちに向こうも気づいて声をかけてきた。
 都会と違ってそんなに本数も多くないし、車両数も少ない。時間帯さえ合えば一緒になるのは不思議ではないのだ。
 だが今までに居眠りをしたり、京一を思って学生服姿の高校生らをぼんやりと眺めていたところを目撃されていたのではと思うと、気づかなかった自分は棚に上げて、声をかけてくれなかった京一を恨む気持ちさえ芽生えた。
 ごつごつした自分の手に並んで、皺のないすらりとした指がつり革を掴んでいる。
 比べれば悲しくなるだけだと思うのに、内藤は京一のそんなところにも見惚れずにはいられなかった。
 車内の女性客がこちらを見ているように思えるのは、気のせいではないだろう。昔から綺麗な子だとは思っていたが、あれほど子供子供していたのに、こんなに良い男になるとは思わなかった。
 それとも子供だと思っていたのは自分だけだったのだろうか?
 いやいや、と内藤は小さく首を振った。
 今でも間違いなく京一は、自分の息子ほどの年齢なのだ。忘れてはならない。
 停車駅が近づき、列車が大きく揺れた。
 ぼんやりしていた内藤はよろめいて、軽く引っかけていただけの指がつり革から外れる。
 あわてて、とっさに京一と同じつり革を掴んでしまったのは、さっきまでそこを眺めていたからで他意はなかった。
 だが、思いがけず触れた京一の体温に、内藤の脈拍は一気に高まった。
「す、すまん」
「いいえ」
 京一の方は落ちついたもので、急いで体を離したためにまたもふらついた彼の腕を掴み、列車が完全に停止するまで支えてくれる。
「気をつけて」
 実際には目立たぬ小さなできごとだったが、内藤は周囲の目を意識して、いたたまれない気分になった。
 京一の指はひやりと冷たく、その感触は内藤の肌の上からいつまでも消えなかった。
「きょ、京一くんは卒業したらどうするんだ?」
 動揺をごまかすために、内藤は口を開いた。
 訊ねてみて初めて、彼がこの町を出て行くつもりなのかどうか知りたくなる。
「一応教師志望なんですけど」
「教師? そういえば専攻は?」
「日本史学です」
「日本史学? 歴史?」
「ええまあ。文献史料を中心に研究する学問なんですけどね」
「難しそうだな。ということは社会の先生になるのかい」
「まあ、なれれば。でもサラリーマンも考えてます」
「しかし、もったいないだろう。サラリーマンも色々あるだろうが……」
 京一はわずかに首を傾げた。
「院への進学を勧めてくれる教授もいて、祖父さんも学費は出してくれるって言ってくれてるんですが」
 祖父さん、というのは芙貴子の父親で、娘の死をきっかけに孫たちとの縁を復した。その仲立ちになったのが、内藤である。
「なら、甘えればいいじゃないか」
 内藤が言うと、京一は静かに首を振った。
「俺は早く社会人になりたい。一人前になりたいんです」
 そう言ってつり革を握った腕の向こうから、内藤をじっと見やった。
 どこかで聞いたセリフだ、と京一の眼差しに居心地の悪さを感じたとき、列車が二人の降りるS駅についた。
 さり気ない仕草で京一が先をうながす。内藤の方が年長者だからということだろうが、背後からの視線が落ちつかない気分にさせる。
 他の降車客といっしょに階段を上がったところで振り向き、内藤は今日も「北口に寄っていくから」と京一と別れようとした。
「内藤さんは、俺と一緒だと、スーパーに寄りたくなる?」
 改札口でロングコートのポケットに手をつっこんだまま、京一はくすくすと笑った。
「え……」
「内藤さんは俺のことを変わったって言ったけど、俺から見ると内藤さんの方こそずいぶん違って見える」
 人波を避けて向かい合い、京一は優雅に首をまわした。
「いや、やっぱり変わったのはこっちなのかな。内藤さんは昔のままなのかも。前はわからなかったところが俺に見えるようになっただけで……」
「京一くん」
 内藤は汗ばむ指で取り出した定期を弄んだ。
「京一くん、悪いけど、急ぐから……店閉まるといけないし」
「内藤さん」
 京一の唇はまだ笑みの形をとっていたが、目は真剣な光を放っていた。
「内藤さん、あと一年したら俺は社会人です。千恵のおかげで思いがけず早く再会したけど、本当は卒業したらあなたに会いにいくつもりだった。あと一年したら言おうと思っていたことが……でも、もしかしたらもう待つ必要はないのかな。あなたが……」
 追いつめられたような内藤の表情に気づいたのだろうか。京一はそこで、ふ、と視線を和らげると、ポケットから片手を出して軽く振った。
「ごめんなさい。俺もまだ決心つかないし、どっちみちこんなところでする話じゃない」
 行ってください、という京一に促されるまま、内藤は逃げるようにしてその場をあとにした。


 もともと買い物は口実だったので、目に付いたレトルトのカレーとウーロン茶のペットボトルを買うとすぐスーパーを出た。
 それでもあのまままっすぐ帰れば京一はすでに家に着いている頃だろうからと、迷わず南口へ抜ける。その前に派出所を覗いたが、楠本は巡回に出ているようで不在だった。
 駅前通りをいくらも行かないうちに、内藤は前を行く二人連れに気づいて、うっ、と足を止めた。
 自転車を引いた髪の茶色い女子高生と、隣を歩くロングコートの男。街灯に照らされたコートの柄を確かめるまでもなく、千恵と京一だった。
 反対の電車で帰ってくる千恵と待ち合わせでもしていたのか、それとも偶然会って自転車置き場まで付き合っていたのか、どちらにしろもう少しどこかで時間をつぶしてくるのだったとほぞを噛んだがしかたない。
 向こうに気づかれないのが救いだと、内藤は少し離れて二人のあとをついていくことにした。
 自転車を押しているのに飛びはねるような千恵の足どりはあちこちへふらふらし、京一もそれにペースを合わせているから、もともと早足の内藤はつい追いついてしまいそうになる。
 それでも嬉しそうに会話を交わしている兄妹の後ろ姿は微笑ましかった。
 そして、ああ、と気づく。
 古臭い田舎のおとなたちからは眉をひそめられるような格好のわりに、補導されてくる少年たちのようなすさんだ雰囲気を千恵が持たず、言葉は乱暴でも人に対する思いやりの心を忘れていないのは、この兄から愛されているからだろう。
 京一のあの見違えるようなおとなびた表情は、単に年月のせいではなく、この妹を四年間守ってきた責任と自信から来るものなのだ。
 煙草の自販機の角を二人が曲がる。
 内藤のアパートはもう少し先で、ここを曲がると遠回りになるのだが、彼は引き寄せられるように同じ脇道へ入った。
 どうせなら二人がちゃんと家に帰りつくのを見届けたい、そんな気持ちだった。
 亡き芙貴子がローンのほとんどを払い終わっていたボロい一軒家。かつては内藤も足しげく通った家である。
 あと少しでペンキの剥げたその門までたどり着くというそのとき、二人の背後に人影が現れた。
 電信柱の陰に男が潜んでいれば誰もが怪しんだだろうが、一瞬の迷いもなく駆け出すことができたのは、内藤の刑事という職業のおかげだったろう。
 それでも離れていた十メートルがまるでテレビの中とこちら側を隔てるように、焦る内藤の目の前で、男が棒状のものを振りかぶるのが見えた。
「京一、京一!」
 必死の叫び声に京一が後ろを振り向き、たぶん何もわからぬまま、とっさの反応で隣の妹をかばうように地面に倒れこんだ。
 千恵の悲鳴と、自転車の倒れる派手な音。
 その中で、凶器の先端が京一の体には触れていないことを確かに視認したはずなのに、内藤の頭にかーっと血がのぼった。
「この、野郎!」
 スーパーの袋を捨て、二人の上に倒れこんだ男の服を掴んで引きずりあげる。技も型もなく、ただむちゃくちゃに大柄な相手の体を投げ飛ばすと、起きあがりかけた顎を殴り倒した。
「内藤さん!」
「動くな! 千恵を離すな!」
 怒鳴っておいて、男の腕を踏みつける。ぽろりと落ちた銀色の警棒を、内藤はすばやく拾い上げた。
 スチール製のバトンは先端がスプリング状になっており、ムチのようにしなるそこが破壊性を増す。
「このガキが! こんなもの、どこで手に入れやがった!」
 千恵であろうと京一であろうと、こんなもので殴られればただでは済まない。
 すでに相手には抗う気配はなかったが、内藤はその体をしっかりと押えこんで離さなかった。
 パパッと周囲の住宅の玄関に明かりがつき、おそるおそる外を覗く気配がする。
「百十番!」
 誰にでもなく怒鳴ると、首をまわして兄妹の姿を探した。
 倒れた自転車の横で、京一は腹の下に妹をかばって四つんばいになっていた。頭をもたげてじっとこちらを見つめている彼と目が合ったとき、内藤の心の奥底で、重い鎖が一つ外れたような気がした。
 幸い近くを巡回中だった楠本がすぐに駆けつけてくると、内藤は体を起こして犯人を彼に引き渡した。
 近所の者が声をかけても、京一は彼の命令を忠実に守ったまま、冷たいアスファルトに伏せていた。怪我をしているのでないことは、こちらに向けられた彼の表情でわかった。
 暗がりの中で見上げてくる目がきらきらと光っている。
 内藤は胸が熱くなり、黙ってその場に膝をつくと、千恵ごと京一を抱きしめた。
 京一の長いコートに隠れて姿の見えない千恵が、男二人の体重をかけられて、「ねえ、オサムちゃんなの?」と下から弱々しい声を出した。
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