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最後のラン
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「もう、信じらんなーい!!」
 痛むこめかみを右手で揉みながら廊下へ足を踏み出したとたん、若い女性のきんきん声が内藤の耳に飛びこんできた。
「あたし何にも悪くないじゃん! なのに京ちゃん呼ぶってどういうことよぉ?」
「だからね、きみが悪いとかそういうことじゃなくて、単に遅くなったから保護者の方に……」
「遅くなったのはあんたたちのせいでしょおお!」
 見ると、階段の脇で制服姿の女子高生と、署の人間らしき若い男がもめている。
 甲高くヒステリックな叫び声が疲労で重い頭にがんがんと響く。
 ――どうせ補導でもされたんだろう。
 いかにも、という感じのとうもろこし色の頭髪をちらりと見やり、内藤は軽くため息をついて、コートを片手にわきを通りすぎようとした。そのときだった。
「あれっ、オサムちゃんじゃん!」
 確かに修(おさむ)は自分の名前である。だがもう長いことそんなふうに呼ぶ人間はいないはずで、内藤はぎょっとして顔を上げた。
 瞼に色を塗りたくった顔が、大胆にこちらを覗きこんでいた。
「あ、やっぱりオサムちゃんだあ!」
「は? えーときみは……?」
 親子ほども年が違うようなこんな娘に知り合いはいないはずだ。事件絡みで若者に会う機会がないわけではないが、内藤のところへやってくる被害者はもう少し年齢が上だった。
 困ってもう一人の男の方を見ると、こちらも内藤同様めんくらった顔をしている。
 だいたい内藤のような年代の男をつかまえて「ちゃん」付けはないだろう。
「悪いが覚えが……」
「ひっどーい、オサムちゃん! マジで忘れちゃったのー? あたしあたし、チエだよ、チエ!」
「チエ……?」
 睡眠不足でぼうっとした頭が記憶の層を探りだす。同時に、妙ちきりんな化粧をしていても、相手が案外整った顔立ちをしているのに気づいた。
「チエ…チエって……あ、まさか、千恵ちゃんか? 芙貴(ふき)先輩のとこの?」
 驚きでふるふる震えながら差し出された人差し指をきゅっと握りこんで女子高生が笑った。
「そうでーす。萱野千恵(かやのちえ)だよっ。オサムちゃん、久しぶりーっ」
 萱野芙貴子は内藤の高校時代の先輩だった。故郷から遠く離れたこの町で偶然にも再会したが、すでに他界して四年あまりになる。千恵はその娘だった。
「千恵ちゃん……わからなかったよ」
 内藤は本心からそう呟いた。彼の記憶にある千恵はまだ中学生になったばかりで、二つに結んだ髪も真っ黒だった。
「そーお? オサムちゃんは全然変わんないねぇ! チエすぐわかったよ。あ、でもやっぱだいぶくたびれたかなぁ?」
 千恵は無邪気にそう言って、内藤の背中をバンバンと叩いた。母親譲りで遠慮がないところに、確かに昔の面影がある。
「あのう……」
 懐かしさに思わず口元をほころばせかけた内藤に、おずおずと声がかけられた。
 振り向くと、所在なげに男が立ちつくしている。
「内藤警部補、この子と面識が……?」
「あ、ああ。昔世話になった人の娘でね。何かやらかしたのか?」
「ひどーーいっ、オサムちゃんてばっ。あたし何にもしてないのにぃっ!」
 千恵がまたぎゃーぎゃーと喚き出した。
「あ、悪い、そうなのか」
 てっきり補導されたのだと思っていたが、そういえばこの若い刑事には見覚えがある。正確な所属は忘れたが、確か少年課ではないはずだった。
「あ、ええ、実はその子は痴漢の被害者でして」
「痴漢? 電車で尻でも触られたか?」
「違うんだよ。道路で後ろから押し倒されて服破られちゃってさっ。見てよ、ここ! 腹立つ!」
 千恵の言葉にぎょっとして見ると、破れるというほどではないが、制服の襟もとのボタンが一つ引き千切られている。よく見ると、手足にも擦過傷があった。
「おい、それで大丈夫だったのか?」
「うん。悲鳴あげたら通行人がかけつけてくれてさ。相手は逃げちゃった。でも誰かが楠本さんを呼んできて、それでパトカーでここまで連れて来られちゃったの」
 楠本というのは、千恵や内藤が利用するS駅前派出所の巡査の名前で、内藤もよく知っている。
「最近市内でたちの悪い痴漢が増えてるんですよ。実際に強姦の被害も出てるんで、詳しく話を聞かせてもらってたんですが……」
 強姦、の言葉に内藤は眉をひそめた。本人はあっけらかんとしているようだが、千恵がそんな危険な目に会うところなど、想像するだけでぞっとする。
「顔見たか?」
「見ないよ、後ろからだもん。はあはあ息荒げて気色悪いったら!」
「おかしな場所をうろうろしてたんじゃないだろうな?」
「違うもん! ほら南口からまっすぐ来て、タバコの自販機のとこを曲がった通り。あそこだよ」
 千恵の言った場所は内藤にもすぐわかった。ただでさえ小さな駅の上に、南口はさびれている。駅前通りから一つ脇に入ると、時間帯によってはほとんど人通りがなかった。
「あそこか……」
「普段はあたしチャリ通なんだけど、今ガッコの駐輪場のカクチョー工事とかで、電車使わされてるんだー」
 千恵は不満そうに唇を尖らせた。
「そうか……。これからは駅まででも自転車を使った方がいいかもしれんな」
 内藤がそう言うと、千恵は「うん……」と考えるように小首を傾げた。
「あのう……」
 再び若い刑事が口をはさんだ。
「あ、そうだった。それで、何をもめてたんだ?」
 内藤は最初に目撃した状況を思い出して二人のどちらにでもなく訊ねた。
「いや、念のために保護者に連絡したんですが……」
「そうなのっ、よりによってこの人、京ちゃんに連絡しちゃったんだよぉ!」
 千恵の甲高い声に、くたびれたスーツに包まれた胸の奥が、どくんと大きく打った。
 京ちゃん。京一。千恵の兄の名前である。
「京…一くんに?」
「そうなんだよっ。よりによって疲れて帰ってきてるところを呼び出してさっ」
「呼び出したんじゃなくて、連絡したら向こうから迎えに来るって言うんで……」
「そもそもなんで連絡なんてすんのよおっ。京ちゃんには余計な心配かけたくないから黙ってるつもりだったのにっ」
 千恵はそう怒鳴ると、はっと気づいたように内藤の腕をとった。
「あ、ほら、あたしオサムちゃんに送ってもらうからいいっ。ね、いいよね? 家近いし。どうせもう帰るところだったんでしょ?」
 片腕にかかったコートをめざとく見つけて言う。
「あ、ああ、かまわない。俺は電車だが、タクシーを呼んでもいいし」
「やたっ」
「でもどっちにしろもうお兄さんは家を出てるよ?」
 刑事の言葉はもっともで、千恵は再びキイッとヒステリーを起こしかけたが、しばらくして諦めた口調で言った。
「わかった……。でも、こんなとこで待つのはヤだ。ね、すぐ近くにファミレスあんじゃん。内藤さん、なんかおごってよ」
「え、俺が?」
「久しぶりだからつもる話でもしよーよ」
「ま、いいが……」
 内藤にしても、このまま千恵を置いて帰るわけにもいかなかった。
「刑事さん、京ちゃん来たらそっちに来るように言ってよ!」
「え、そんな勝手な、きみ……」
「いいでしょー、オサムちゃんが一緒なんだもん!」
 内藤の知り合いということで、刑事も無下に断るわけにはいかないらしい。もともと千恵には押され気味だったようで、結局京一が来るまで内藤が責任を持って面倒を見るということで話はついた。
「じゃあ、行こっ」
 けっこう嬉しそうに腕を組んでくる千恵の手を、内藤は慌てて振りほどいた。
「なによぉ」
「きょ、京一くんがレストランに来るのか?」
「そーだよ、聞いてなかったの?」
「ちょ、忘れ物だ。これ、持ってろ」
 内藤は千恵の手にコートを押しつけると、あわててきびすを返した。
「もぉっ、早くねぇっ」
 千恵の声を背に、さきほどまで仕事をしていた室内に飛びこむと、
「あれぇ、内藤さん。帰ったんじゃなかったんですか」
と、部下の一人が声をかけてきた。
「ちょ、ちょっとな」
 そう言いながら、がたがたと机の引出しを漁る。
「櫛、櫛……」
 無意識に顎を撫で、ざらりとした感触にはっとする。
「おいっ、佐々木、おまえ電気剃刀持ってただろう」
「シェーバーですかぁ?」
「何でもいいから早く貸せ!」
 洗面台の上の鏡を覗きこみながら、内藤は苛々と髪を撫でつけた。
 ヒビの入った鏡の中から見返しているのは、慢性的な疲労で目を充血させた、四十過ぎのしがない中年男。
 再び胸の奥が痛んだ。
 見なければ良かったと思った。
 京一は今年、二十二になるはずだった。


 内藤には離婚歴がある。警察の社会には早婚を奨励する傾向があり、内藤も二十六で見合い結婚をした。相手は三つ下のOLだった。
 内藤は、自分に同性との経験があることをこの妻には告げなかった。完全な同性愛者というわけではなく、実際女性との恋愛の方が数も多かったし、結婚したからには妻には誠実でいるつもりでいたので、打ち明ける必要などどこにもないように思えた。
 少し幼いところがあるこの妻と内藤はそれなりにうまくいっていたが、幸か不幸か三年経っても子供はできなかった。ただ幸い二人も両方の親も、特にそれで深刻になるということはなく、まだ若いのだからと気楽に考えていた。
 だが専業主婦となった妻は現実問題としてひまを持て余し始め、サークルだ旅行だと家を空けることが多くなった。
 明かりの点いていない家に帰ることの寂しさや不満がなかったわけではない。だが、内藤が酔って過ちを犯したのは、たった一度だけだった。
 そのたった一度の相手がバーで知り合った名も知らぬ男性であり、翌朝旅先の事故で予定を切り上げて帰宅した妻と顔を合わせてしまったことが、事態を大きく変えた。
 妻は泣き、罵り、内藤の謝罪を受け入れなかった。
「わたしの三年間を返してよ!」
 その言葉が忘れられない、と、転勤先の田舎で偶然再会した芙貴子に内藤は打ち明けた。
 わたしを騙して三年も無駄にさせた、と、妻は内藤をなじった。
 知らないでホモの男に嫁いで、二十六でバツイチになった。もういい結婚なんて望めない。
 理不尽なセリフだとは思わなかった。浮気をしたのは自分の落ち度であり、離婚歴のある妻のもとに三年前ほど良い縁談が来ないことは、紛れもない事実だろうと思えたからである。
 自分の恥にもなるから、と、身内にも職場にも離婚の本当の原因を隠し通してくれたことはありがたかった。
 ――俺は一人の女の時間を無駄にした。いや、一生を傷ものにしてしまった。
 内藤が酔ってそう愚痴をこぼすと、芙貴子は黙って酒を注いでくれた。
 一方、当の芙貴子も内藤同様若くして結婚し、二人の子供を連れて離婚していた。
「駆け落ち同然だったの」
 高校時代、学校中の男子生徒の羨望を集めたのと同じ顔で、芙貴子は微笑んだ。
 内藤の頼りない記憶によれば、芙貴子の家は結構な名家だったはずである。その娘が小さな田舎町でスナックを経営していると知って、再会した当初はひどく驚いた。
「けっきょく親の目は正しかったみたいだけど、認めるのはしゃくよねぇ」
 芙貴子はあまり前夫の話はせず、ただ「ろくでもない男」と笑っていた。
「でもわたしはオサムちゃんの奥さんみたいに時間を無駄にしたとは思ってないけど。あのとき親を捨てても彼と別れたくない、と思ったのはわたしだし。実際こんなことになっても後悔はしてないしね。わたしの時間の責任はわたしだけがとるわ」
 内藤は芙貴子のきっぱりした口調に黙って耳を傾けた。
「好きだったんだ?」と訊ねると、「めろめろだったわよお」という返事が返ってきた。
「なんたって顔だけは抜群に良かったからねぇ」
 そうであろうことは、時折店を訪ねてくる息子を見れば一目瞭然だった。
 芙貴子もかなりの美人だったが、その頃まだ小学生だった京一は、母親よりもずっと繊細な容貌をしており、芙貴子は時折目を細めて「父親そっくり」だと評した。
 内藤には、いつから京一に恋をしたという記憶はない。なにせ最初に会ったとき、相手はランドセルを背負っていたのだ。
 もちろん素直で家族思いの京一の性格は好ましかったし、他の客の誰よりも自分を慕ってくれる事実は嬉しく、密かに自慢でもあった。
 始めは確かに、息子のように思っていたのだ。休日には芙貴子の代わりに遊びに連れ出すこともあったが、妹である千恵も同じようにかわいく、京一を贔屓する気持ちはみじんもなかった。
 京一の手足が伸び、ふっくらとしたあどけない顔がおとなびる一方でますます繊細さを増していっても、内藤は劣情を覚えたことなど一度もなかった。それは亡くなった芙貴子に誓っても良い。
 だがあの日、交通事故で突然帰らぬ人となった母親の棺の前で俯いている学生服の細い肩を見たとき、内藤は衝動的に手を伸ばしていた。
 抱き寄せられるままに、自分の腕の中で嗚咽を漏らした十七歳の京一への想いを自覚したとき、内藤の体は禁忌に震えた。
 初めて同性の肉体に欲情した放課後のロッカールームよりも、見知らぬ男と同衾しているところを妻に目撃された朝よりも、内藤は罪悪感に打ちのめされた。
 あれほど自分が浅ましく感じたときはない。

「……って、ねぇ!」
 怒ったような声に、内藤ははっとして顔を上げた。テーブルの向かいでは、彼が自分の兄に懸想していることなど露ほども知らない千恵が、ふくれっ面をしている。
「あ、悪い。なんだ?」
「……もういい。あたし、チョコパ!」
「そんなもんでいいのか? メシは?」
「ご飯はウチ帰って京ちゃんと食べるからいいの!」
「太るんじゃないのか?」
 考えもせず言ったそばから余計なことだったとほぞを噛んだが、千恵はそれで完全に臍を曲げたらしい。やってきたウェイトレスの顔も見ずに、「チョコパ二つ!」と怒鳴った。
「……とコーヒー」
 内藤はなんで二つなんだ、まさか俺が食うんじゃないだろうな、と思いながら力なく付け加え、二人になってから、「別に千恵ちゃんが太ってるって意味じゃないよ」と言ったが、千恵はツン、と横を向いていた。
 実際、千恵は太っているどころが、制服のミニスカートからすらりと伸びた足は内藤の目にも眩しいほどだった。たいした傷ではないものの、血の滲んだ膝小僧が痛々しい。
 そういえば痴漢に襲われたのだという話だった。本人がけろりとしているから忘れるところだったが。日の落ちた道をこんなふうに素足を剥き出しにした少女がふらふらと歩いていれば、おかしな性向のある男に目がつけられやすい。
 内藤はそう考えて思わず顔をしかめた。
 頭髪を染め、キテレツな化粧をしているからというだけでなく、千恵は明らかに人目を引く。普通にしていればもっとかわいいだろうに、と思ったが、さすがに学習した内藤は「ずいぶんお母さんに似てきたね」とだけ口にした。
「……そう?」
 ちょっと機嫌を直したらしく、こちらを向く。
「うん。千恵ちゃんにオサムちゃんて呼ばれると、芙貴先輩に呼ばれてるような気分になるよ」
 内藤がコップの水を飲んでため息をつくと、千恵は「オサムちゃん、オサムちゃん」と何度かからかうように繰り返し、へへへ、と笑った。
「大きくなったね、見違えた」
「だってすっごい久しぶりだもん。母さん死んでから? あ、そのあともしばらくはウチ来てくれたよね? でももう何年も会ってないじゃん? オサムちゃんハクジョーモンだから」
 まんざら口先だけではないらしく、ふっと見せた千恵の寂しそうな表情に、内藤の胸は痛んだ。
 この兄妹が、母親の死後、自分をどれだけ頼りにしていたか知っている。実際加害者との交渉に当たったのも、芙貴子の実家に連絡をとったのも、すべて内藤だった。だがその半年後、突然彼は萱野家から、正確には京一から手を引いたのだ。
「刑事の仕事忙しいんだ? 殺人犯とかばんばん逮捕してんの?」
「いや、俺は生活経済課で……」
「何するトコ? それ」
「キャッチセールスの被害なんかを扱うとこだよ」
「なーんだ、つまんないの。でも確かにドラマの中の刑事と全然違うもんね。かっこわるー」
 ずけずと言っては遠慮なく内藤の格好を眺めまわす。居心地悪くなって、内藤は再びコップの水を飲んだ。
「そんなにさえないか?」
「うん。いかにも――えっとえっとなんだっけ、そう、ほら、男やもめって感じだよぉ。スーツよれよれだし、靴だってすごく汚ない」
 さも嫌そうに内藤の足元を見やる。
「千恵ちゃん、やもめは奥さんに死なれた人のことを言うんだよ。それに靴だけど、履き慣れてるからなかなか買い換える気が起こらなくてね」
「臭いそー」
「何を言う。靴下はほれ、通勤快足だ」
 ズボンの裾をちょっと持ち上げて見せたが、千恵はますます鼻に皺を寄せるだけで何も言わなかった。
 ほどなくしてパフェが運ばれてきた。内藤は自分の前に置かれたチョコレートと生クリームの山にうんざりして、救いを求めるように千恵の顔を見たが、相手は知らん振りして自分のスプーンを舐めている。
 どうやら思った通り、これは内藤の失言に対する罰らしかった。
 だからといって甘い物は全般的に苦手なだけに手をつける気にもならず、一緒に運ばれてきたコーヒーを啜りながら何気なく店の入口に目をやった。
 あ……。
 店内に入ってきた一人の青年が内藤の目を引いた。
 アーガイル柄のセーターにスラックスという何気ない服装だが、姿勢がいいのと歩き方が優雅なので品良く見える。
 遠目で顔立ちまではわからないが、細身ながらしっかりした骨格と長い足が、まるで大型の洋犬のようだった。それも血統書付きの。
 彼を足元に置いて、美しい毛並みを間近で愛でてみたい。
 こんなふうに通りすがりの男に強い魅力を感じるのは若い頃以来で、この年になってもまだ自分にそんな衝動が残っていたのか、と、内藤は内心ひどく驚いた。
 青年は待ち合わせでもしているのか、店内を見まわしながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
 眼鏡をかけているせいか、その横顔はひどく知的で、内藤はそこから目が離せなかった。
 青年がこちらを向く。
 驚いたように、ガラスの奥の綺麗な二重の目が見開かれた。
 形の良い唇がわずかに開き、そして閉じられた。
「あ、京ちゃん!」
 内藤が心底仰天したことに、目の前に座っていた千恵がスプーンを握っていた手を上げて振りまわした。
「きょ、京ちゃん!?」
 何かの聞き間違いだろうと、千恵と青年の顔をあわただしく見比べたが、呼ばれた青年はそんな内藤のテーブルに静かに近づいてくると、「こんにちは、ご無沙汰してます」と軽く頭を下げた。
「きょ、京一くんか?」
 あんぐりと口を開けた内藤の表情に、京一はくすっと笑ってそうですよ、と答えた。
 千恵の横に体を滑りこませながら、「こっちを見ていたから気づいていたんだと思ってたんですけど、わからなかったんですか?」と訊ねた。
 まさか見惚れていたんだとは言えず、内藤は唖然としたまま、「わからなかった……ずいぶん変わったもんだから」と呟いた。
「千恵ならともかく俺が? そんなに変わりました?」
 あたしならともかくって何よぉ、と不満気な声はするが、内藤の耳には入らない。
「せ、背が伸びたんじゃないか」
「そうですか? ま、少しは……でもそんなに驚かれるほど変わってないですよ。あ、体重は増えましたがね。昔はなにせガリガリだったから」
 なるほど、言われてみれば全身に肉がついているが、それだけとは思えない。高校時代の京一にはどこか頼りない、華奢なイメージがあったが、今はそんなところは微塵もなく、目の前に座っているのは、すでにおとなの雰囲気をまとった一人前の男性だった。
 こうして間近で見れば、目鼻立ちは確かに四年前と変わらぬ京一なのだが、なにせ印象が全然違っているのでまるで別人のように感じられるのだった。
 最後に会ったときは、真っ赤に目を泣き腫らしていた。
 ――今はそんな面影はどこにもない。
「め、眼鏡のせいかな」
 ああこれ、と長い指がフレームに触れる。内藤はそんな仕草にも惹きつけられて、少年のように胸をどきどきさせた。
「受験勉強で視力が落ちたんです。普段はコンタクトなんですが、電話をもらったときは外したあとだったので」
「あ、ああ、それに服装もね。学生服姿のきみしか記憶にないから」
 内藤の言葉に京一の眉がかすかにひそめられたように見えた。だがそれは一瞬のことで、彼はすぐにまた穏やかな笑みを浮かべた。
「内藤さんはお変わりなさそうで。元気そうですね」
「そ、そうかい? 千恵ちゃんにはずいぶんくたびれたって言われたが」
 内藤がハハハ、と笑うと、京一は横を向いて「千恵!」と叱った。言われた本人は平気な顔で「だって本当だもーん」と笑っている。
「あの……」
 テーブルのわきから声がかかって、三人が顔を上げると新しく水を運んできたウェイトレスが注文を待っている。
 京一に注がれた視線には明らかに熱っぽいものが含まれていて、内藤は目を逸らした。
「ああ、じゃあ俺も……」
 言いかけた京一はふと内藤の目の前に置かれているパフェに気づき、「それは?」と手で示して訊ねた。
「ああ、いやこれは……その、千恵ちゃんが一緒に頼んでくれたんだが、どうもね……」
 その言葉に、京一は「まったく千恵は」と呟いて、そのまま皿を引き寄せた。
「じゃあ俺がこれもらいますよ。どうせ内藤さん、甘いもの駄目だったでしょう?」
「え、京一くんが? え、ええと俺はかまわないが、もう溶けかかって……あ、いや、俺は全く手をつけてないからきれいだけど」
 京一は「そんなのかまわないですよ」とさらりと言ってスプーンを取り上げた。
「俺わりと甘いもの好きなんです」
 そう言っててっぺんのクリームをすくって口に運ぶ。その様子を見つめていた三組の視線のうちの一人に気づき、京一は「あ、だから注文はいいから」とにっこりと微笑んだ。
 ウェイトレスは見た目にわかるほど頬を赤くして立ち去った。
 けっ、と千恵が舌を出す。
「あの程度で京ちゃんに色目使うなっちゅーの」
「千恵!」
「だって京ちゃんには釣り合わないもん。ねえ、オサムちゃんだってそう思うでしょ」
「こら、千恵! そんな呼び方……」
「だって母さんだってそう呼んでたじゃん」
「母さんとおまえは違うだろ」
「いいんだもん。オサムちゃんだって母さんに呼ばれるみたいで嬉しいって言ってたよねぇ。オサムちゃんはほら、母さんが好きだったからさー」
 嬉しいと言った覚えはなかったが、芙貴子に好意を抱いていたのは本当なので、内藤は曖昧な笑みを浮かべた。
「かわいい子だったじゃないか」
 別に注意して見ていたわけではなかったが、ピンクの制服を着ていたのでかわいいだろうという適当な意味をこめて言ったのだが、目の前の兄妹は明らかにおもしろくない顔をした。
「オサムちゃんすけべったらしー」
「内藤さんの好みってああいうのなんですか」
「いや、好みとかそういう意味じゃなくてだね……」
 内藤は困ってコーヒーカップの中を覗いた。カップを握った手がじんわりと汗ばんでくる。そもそも京一の前で好きの嫌いのという話をしたくはなかった。だが、そんな願いもむなしく千恵が話題をむしかえす。
「あんなんじゃダメダメ。京ちゃんには全然似合わない! 京ちゃんにはもっと美人でやさしーお嫁さんをもらってもらわなくちゃ!」
「俺の相手がおまえにどういう関係があるんだよ?」
「だって一生パラサイトさせてもらうつもりだもん」
「勝手なことを言うな。おまえはおまえの彼氏を見つけろ」
「どうせあたしは母さんと一緒でロクな男に引っかかんないのわかってるもん。京ちゃんはモテモテなんだから、その顔でどっかのお嬢さまモノにして、妹を一生楽させてよぉ」
「千恵! おまえってやつは……」
 仲の良い兄妹のやり取りを黙って聞きながら、内藤はだんだん辛くなってきた。
 髪を染めて乱暴な言葉遣いをする千恵も、対照的に知的で優雅な京一も、こうして並んでパフェを食べている姿を見れば、やはり血がつながっているだけあってよく似ている。
 そしてどちらも若い。
 若くて美しい。
 一方、背を丸めて冷めたコーヒーを啜っている自分は、彼らと親子ほども年が違い、千恵の指摘通り、くたびれて見かけも中身も冴えない。
 生きてきた人生の長さで、そしてこれから待つ時間の長さで、もう住む世界が違う。決して交わらないのだ。
「それ…じゃ、京一くんが来たことだし、俺はもう失礼するよ」
 そう言って立ちあがると、驚いたように顔を上げた京一が、内藤の手に握られた伝票に気づいて「あ……」と声を上げた。
「いいから、久しぶりに会ったオジサンに奢られてなさい」
 そこだけは年長者の世慣れた仕草で相手の言葉を制する。
 千恵などは素直に「ごちそうさまー」と手にしたスプーンを振った。
「さっき千恵ちゃんとも話したんだけど、駅まででも自転車を使ったらどうかな? 大した距離じゃないけどあの道は危険だからね」
 すでに事件については警察で聞いてきたのだろう。京一は表情を引き締めると、真面目な顔で頷いた。
「ここへは電車で?」
「いえ、タクシーで。帰りも拾います。良かったら内藤さんも……」
「いや、俺はまた署に戻る。ちょっと用事を思い出したから」
「そうですか」
「じゃ、気をつけて帰れよ」
 なんとなく背中に視線を感じながら内藤がテーブルを離れると、数歩行ったところで「オサムちゃん!」と背後から声がかかった。
 振り向くと、千恵が椅子から身を乗り出している。
「なんだ?」
「今度さー、土日でヒマなとき、声かけてよ。あたしと京ちゃんが付き合うから、靴買いに行こっ」
 京一がその横で微笑んでいた。
 内藤の胸がじんわりと温かくなり、そして何だか泣きたくなった。
 萱野家の兄妹が店の客に愛され、芙貴子の死後も近所の人間がそろって世話を焼きたがった理由がここにある。
 これからもこの二人に手を貸したい、そばにいたいと思う人間は跡を絶たないだろう。なにも内藤でなくてもいいのだ。
 そう考えて、いや、と思い直す。
 数年振りに見た京一の、あのおとなびた頼もしげな表情を思うと、力になりたいと思うのもおこがましいような気がした。
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