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ワンナイト・ラバー
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 もちろん、下半身を満足させるのはこれからだ。
 俺は跡が付くくらい力をこめていた太腿からようやく手を離したが、ぐったりした彼はもう抵抗する元気もないのか、だらしなく開いた脚をそのままにしていた。
 上半身をねじったまま、目を閉じて、ハッハッ、と荒い息をついている。
「ヒロ?」
 声をかけると、伏せたまぶたがそっと持ちあがった。頬は涙で濡れている。
 俺はなんだか彼がすごく可愛らしくなって、赤く染まった耳たぶに軽くキスをした。背中のシャツもとってやる。
 彼は自由になった手首を無意識のように摩りながら、再び目を閉じて枕の中に顔を埋めてしまった。
 ぐったりした様子のヒロからいったん離れ、部屋の隅に投げ出しておいた鞄へコンドームとオイルを取りにいった。備えあれば憂いなし、だ。
 ハイエナみたいなイタリア女も、さすがにコンドームまでは持っていかなかったのだ。
 期待に早まる胸を押さえ、俺はベッドの上にそれらを投げ出すと、上と下を脱いで素っ裸になった。頭髪より色の濃い体毛の中から、俺のペニスはすでに力強くそそり立っている。自慢のそれを是非見たり触ったりして欲しかったのだが、彼は残念ながらそれどころではない様子だった。
 ヒロがその道のプロでないのは、もうわかっている。感じやすいのは悪いことではないが、たった一度咥えられただけで、ああわけもわからなくなってしまうのでは商売としてはやっていけないだろう。
 ヘレネーのファンなんだろうか。なんかちょっと違う気もするけど。
 何だかセックス自体にも慣れていない感じがして、俺は優しく扱ってやろうと心に決めた。たった一晩でも、彼は大事な俺の恋人だ。
「恋人……」
 俺はそっと口に出して呟いてみた。悪くない。全く悪くない。
 ベッドに乗り上げると、ギシッと音がした。揺れを感じてヒロが目を開ける。
 俺はその頬にもう一回キスをすると、すでに彼の頭から外れていた枕をそっと取り上げた。再び彼の脚の間に座りこみ、両足に手をかけてぐっと開かせる。
 彼は驚いたように顔を起こしてこちらを見た。
「腰を上げて」
 通じないのはわかっていたので、軽く腰骨を叩いたが、彼は眉をひそめてこちらを見ているばかりだ。しかたなく、力任せに彼の下半身を持ち上げると、さっとその下に枕を突っ込んだ。
 腰を突き出すように開かれた姿勢に気づいたのだろう、ヒロは再び何かを叫んで足を閉じようとした。が、俺の体がおさまっているので、それはできない。
 俺は彼が身を起こさないうちに、瓶の蓋を開けてオイルを手のひらに受けた。誰かからのもらい物だが、なかなかいい香りがする。ベッドタイム用というよりは妙に爽やかな香りだったが、ヒロにはよく似合っている、と思った。
 たっぷりと濡らした指を、まずは一本、彼の後ろに押し当てた。とたん、びくりと引く腰を逃さないうちに、ずずっと爪先を押し入れる。
 驚きのあまり一瞬硬直していたヒロは、ゆっくりと慎重に指を進めていくと、とたんうるさくわめき始めた。とは言っても下半身に異物を咥えこんでいるので暴れたりはできないらしい。
 体を引きつらせるようにして必死でこちらに手を伸ばしてくるのだが、俺の方はそれどころではなかった。
 キツイ。きつすぎる。
 中はそうでもないのだが、肝心の入口が、ぎゅっとすぼまって激しく抵抗している。様子を探るためにその位置で指を動かしたが、関節部分は強く締めつけられたままだった。
「アッアッ」
 柔らかな内壁を優しくたどると、何とも可愛らしい声が上がった。だが、中指もそえて差し入れようとしても、門はまるで鉄のリングでもはまったようになかなか広がろうとしなかった。
「まいった……」
 俺のは指二本どころではない。もちろん三本でもきかない。見下ろせば今にも思いを遂げたくて涙をこぼし始めたモノがそこにあるのに、肝心の戸口がぴっちりと閉じられている。
 このまま無理につっこめば慣れないそこは裂けるだろう。
「くそっ」
 俺は唸り、頭を振り、ぐっと唾を飲みこんで長期戦を覚悟した。
「よし、ヒロ、がんばろうな」
 俺が声をかけると、もういい、と言いたげな顔で、彼がこちらを見た。
「まず、尻の力を抜くんだ」
 と言っても通じないから、まずは尻以外に彼の注意を向けなくてはならない。
 俺は指をそこに残したまま、体をずらして彼の顔に唇をよせた。もの言いたげに開かれたそこへ、そっと舌を忍びこませる。
 さっきと同じキスをするつもりはない。俺は彼の舌を歯で挟んだり、噛んだり、こちらの舌で刺激したりしながら、辛抱強く彼の反応を待った。
 出て来いよ。かわい子ちゃん。俺のラバー……。
 口は塞がっているので実際に囁いたわけではなかったが、まるでその呟きが聞こえたかのように、ゆっくりと彼の舌が差し出されてきた。最初はおずおずと。だが、だんだんと熱心に。
 俺の舌に、自分の舌を絡ませる。流し込んだ唾液を、苦しそうではあるが、こくりと飲みこむ。俺が舌を引っ込めると、追いかけるように舌が突き出されてきて、俺は内心狂喜した。
 こちらが押すと引き、引くと出る。俺はこういうダンスが大好きだ。期待以上の相性の良さで親密なダンスを上の口で続けながら、俺はそっと入口に押し当てていた中指に力を入れた。
 力の抜けていたそこは、ずずっと指を飲みこんだ。
「うー、ンッ」
 あわてたように彼は唇をもぎ離す。だが俺はそれを追いかけた。彼の後ろに指し入れた二本の指をやさしく蠢かせながら、舌も休ませない。
 入口こそぎちぎちだが、中は驚くほど柔軟だ。そして熱い。敏感な粘膜を傷つけないようにたどり、わずかづつ押し広げるようにしていくと、ヒロはうめきながら、口の端から涎を溢れさせた。
「気持ちイイ? 悪い?」
 濡れた顎を舐めてやりながら、尋ねる。
 言葉が通じないので、俺たちのコミュニケーションは体でするしかない。ヒロの眉はぎゅっと寄せられていたが、鼻に抜ける声が、痛みだけではないことを伝えてきた。
「ここらへんのはずなんだけどな……」
 内壁の腹の方をさすっていると、不意に彼が「アッ」と叫び、さっきさんざんかわいがった彼の前が、ぴくりと頭を起こした。
「ここ?」
 見つけた金鉱を掘り起こすように何度もそこを苛ってやる。
「あ、アーッ」
 天使が官能を知るとこういう鳴き声をたてるのだろうか。辛抱が報われた瞬間だった。
 びくびくと体が震え、勃ち上がった砲身が、先から透明な液を零しながら頼りなく揺れた。
 俺は体を起こして再び彼の脚の間にうずくまり、指の隙間からオイルをさらに流し込んだ。出し入れするたびに激しい水音がする。
「アッ、ヤだ……××、○△△、イヤ……アッ」
 さらに数を増やすと、ヒロは俺を制止するかのように手を伸ばしてきたが、少々意地悪く指を揺すってやると、その手はとたんに力を失ってシーツの上にぱたりと落ちた。そのままぎゅっとシーツを握りこむ。
 ロバート愛用の薄いブルーのシーツはぐっしょりと濡れて、彼の体の下で大きな濃い染みを作っていた。
 俺は、ゆっくりと指を抜いた。引きとめるような動きに逆らいながら、ずるずると引き出す。
「ア、ア……!」
 俺は、赤く腫れたようになったそこを覗きこんだ。
 ここは俺のものだ。俺がかわいがって、俺が育てた。ここまで我慢したんだから、もう誰にも文句は言わせない。普段は決してこんなに辛抱強い俺ではないのだ。
 俺はさっと頭を振って、背の中ほどまである金髪を後ろへ払い、恋人のそこへ逞しいペニスを押し当てた。流れるオイルと先走りの液が入り混じる。
 力をこめた瞬間に、彼はハッと体を起こしたが、半ば無理やり呑み込ませていくと、悲鳴を放って、体を仰け反らせた。
「ごめん、痛い?」
 あれだけ慣らしたはずなのに、鉄のリングは健在だった。途中で止めるとこちらが辛い。俺はなだめるように彼の下腹をさすってやると、腰を揺すり上げるようにして根元まで一気に彼の中へ入れてしまった。
「すっげぇ……」
 熱い。キツい。俺は目を閉じると、その最高の感触を味わった。
 ぎゅうぎゅうと締めつけてくる。でもオイルがあるから動けないわけじゃない。
「ヒロ、どう? 動いていい?」
 ヒロが何かを答えた。辛そうな表情だったが、俺は勝手にいい方に解釈することにして、腰を動かし始めた。
「アー、アー……」
 シーツの上で、黒髪が激しく振られた。新たに溢れた涙が、まなじりからこみかみへと流れ落ちている。俺は手を伸ばすと、指の腹でそっとそれをぬぐってやった。
 それから彼の両足をしっかりと抱え込み、ゆっくりと回すように腰を動かす。最初から乱暴に突いたりしない。大事な恋人が壊れたら大変だからな。
 左右に、前後に、揺すってやると声の色が変わる。
 驚いたように、感じ入ったように、戸惑うように、切羽詰まったように。
 俺の動きと彼の声が直結していて、それは二人が深くつながっていることを聴覚でも俺に知らせてくれた。
「ヒロ、ヒロ。かわいい、好きだよ……」
 アイラブユーは伝わったらしい。彼は、揺さぶられながらも目を開いて必死でこちらを見つめてきた。黒曜石の瞳。涙で濡れた宝石に俺が映っている。
 それを認めたとたん、脊髄にカッと火が点いた。
「あっ、ウッ、まじぃ……」
 俺は背中を丸めて歯を食いしばった。
 変だ。それほど禁欲期間が続いているわけでもないのに。あんまりもちそうにない。
「ヒロ、ごめん、一回いかして……」
 理解したわけでもないだろうに、彼は手を伸ばして俺の金髪を掴み取った。指をからませ、ぎゅっと引っ張られる。
 それが合図だった。
 俺は彼の脚をしっかりと両脇に抱えこんだまま、膝立ちになった。ヒロの腰が枕から離れ、持ち上がる。
 首で体重を支えるようなその姿勢にヒロが苦しそうな声を漏らす。でももう我慢できなかった。
 オイルの音をたてながら、これ以上はないというところまで育った砲身を抜き出す。俺を包んでいたそこが名残惜しげに肉を吐き出すさまが目に入る。俺だけが愉しむにはもったいない光景だ。
 ぎりぎりまで引き出しておいて、またそこへ深々と返してやる。それを繰り返し繰り返し、だんだんと早めていくと、ヒロの首ががくがくと人形のように揺れる。
 すっかり勃ち上がった彼の前の部分にも手を添えてやりながら、あっ、と思った。
 ――コンドーム。忘れてた。
 ロバートがいたらうるさく騒ぐに違いない。だが、何がどうしたってもう遅い。
「アッア……う、うンッ」
 片手でシーツを、片手で俺の髪を掴んだヒロが、いっそう手に力をこめる。
 青い海色のシーツはベッドパッドから半分はがれかけ、髪を引っ張られた俺は痛みに顔をゆがめ――。復讐するように彼のペニスを強く擦ると、声にならない声をあげて、ヒロが顎を突き出した。
 握った筒の先からミルク色の液体が吹き上がり、俺は剥き出しの神経の束を強く絞り上げられることで、さらにその報復を受けたのだった。
「あっ、とッ、くっ」
 うめいて上体を倒した俺が最後の瞬間に見たのは、仰け反った彼の喉の、完璧な象牙色のラインだった。

 
「今度は、ほら、乗って……わかんないかな。こう。うん、足をこうして……」
「アッアッ……××、○△△※……!」
「嫌? 嫌じゃないよな? 動いて、ほら……」
「あっ、マッテ……ア…!」
 街へ繰り出したメンバーもマネージャーも、深夜を過ぎても帰って来なかった。いや、帰ってきたとしても夢中だった俺たちはまるで気づかなかったことだろう。
 シーツはぐしょぐしょのしわくちゃ、閉め切った寝室には淫靡な匂いがこもっている。
 すっかり従順になってしまった彼の柔らかな体を好きなように折りたたみながら、俺はヒロを手放したくなくなっている自分に気づいていた。
 彼を一夜の恋人にはしたくない。
 わけのわからない言葉を紡ぐ唇も、官能的な声も、すがるように自分を見つめる黒い瞳も、何もかもが可愛い。まだ慣れてはいない体も、十分に俺を喜ばせてくれる。この蕾が花開いたら、どんなに素晴らしいパートナーになるだろうと思うと、彼を誰にも渡したくなくなる。
 ツアーが終わったばかりだから、しばらくオフが続く。
 ヒロは明日はきっと起き上がれないだろうから、ベッドの中で食事をしたり、話をしよう。話すったって言葉はあんまり通じないけど、ゆっくりやればなんとかなるさ。
「んっんっんーッ!」
「もういく? もう一回いく?」
 俺はメンバーの誰にも聞かせられないような甘ったるい声で囁いて、再び彼のペニスに手を伸ばしたのだった。

 
 結局、次の日、彼とは話はできなかった。
 目が覚めたら、ベッドの横はもぬけの空だったのだ。
 ローマの朝と同じだった。だが俺は荷物を確かめたりしなかった。
 俺がしたのは脱ぎ捨ててあったレザーパンツを穿いて、部屋を飛び出すことだった。
 裸足のまま階段を駆け下りると、つん、とコーヒーの匂いが鼻先をくすぐった。もしやという思いでダイビングへ飛びこむ。
 だがそこにいたのは、真っ赤な髪を後ろで三つ編みにしたアーティだった。
「リック、オハヨー。すげー頭になってるよ。ライオンみたい」
「アー……ティ。おまえ一人?」
「うん、皆まだ寝てる。帰ってきたの明け方でさぁ……」
 アーティは眠そうな顔をしていたが、それでも一番若いだけあって普段から徹夜には強かった。
「アーティ、おまえ知らないか、その……」
 おれはヒロのことを尋ねようと口を開きかけたが、アーティの顔を見てやめてしまった。もし知らない東洋人が別荘内をうろうろしていたら、こいつが黙っているはずがない。
 俺は諦めてロバートのことを訊いた。ヒロはロバートに言われて来たと言ったのだから、彼に訊けば居場所がわかるはずだ。
「バーティは帰って来なかったみたいだよー。家のことでまだ揉めてんじゃない」
「家のこと?」
「ほら、彼のお父さんが再婚したって話。その再婚相手の息子がさあ……」
「ああっ、もういいっ」
 ロバートの家の事情なんて今はかまうことじゃない。俺は苛々と爪を噛んだが、結局マネージャーが帰ってくるまで何もできないことに気づき、寝乱れたブロンドをいっそう掻きむしった。

 
 だがいくら待ってもロバートは帰って来なかった。
 その日の午後、彼の使いだという事務所の人間が来て、俺たちに四日間の完全オフを言い渡した。もともと何日かのオフは約束されていたが、メンバーたちは喜んでそれぞれの家に帰っていった。
 俺はロバートに連絡をつけようと躍起になったが、事務所、奴の家、携帯、どこに電話をかけても彼は捕まらなかった。
 白状すると、俺は残りのオフを彼の別荘で過ごしたりしたのだ。ロバートが姿を見せるかと思って。ヒロが戻ってくるかと思って。この俺がだぜ?
 結局、ロバートに会えたのは、オフが開けてからだった。
 約束の時間よりずっと早く事務所に姿を現した俺は、赤毛美人のキャンディに奴の居場所を訊いた。
「あー、彼ね、ちょっと遅れてくるって。何でも面倒を見なくちゃいけない弟がいなくなったとかで大変だったみたいよ」
「弟? あー、父親の再婚相手の息子とかいう? ロバートが面倒見るって、そんなに小さいのかい?」
「ううん、ハタチだって。でも英語があんまりできないとかで、新しいオカーサンにくれぐれもよろしくって頼まれたんですって。留学でこっちに来たとかで」
「英語ができない?」
 俺は、嫌な予感がした。
「そー。日本人なの。ようやく見つかったとかで、昨日ロバートがここに連れてきたんだけど、すっごいキュートなの! ハタチには見えなかったわー。お肌とかすべすべで」
「ニ、ホン、ジン?」
「そうよお、ほら、ロバートのお父さんて仕事で日本に滞在してるじゃない? 彼も十代の何年かをあっちで過ごしたって話だし……」
 そういえばそんな話を聞いたことがあったっけ。
 くらくらと目眩がした。まさかという思いと、間違いないという確信がぐるぐる脳裏をかけめぐる。
 ロバートの弟? おれはもしや、マネージャーの弟をやっちまったのか?
「その子の名前……」
「名前? えーと、何だったかな。うーん、思い出せない」
 キャンディはふわふわの赤毛を揺らして首を傾げたが、そのとき、廊下側から誰かの声が近づいてきた。
 それがロバートのものだとすぐに気づかなかったのは、聞きなれない言葉をしゃべっていたからだ。
「あ、ロバート来たみたいよ。彼に訊けば? もしかしてまた今日も弟さんを連れてきたのかな」
 キャンディの予言は的中した。
 なすすべもなく俺が見守る前で廊下に続くドアが開き、馴染みのロバートと、その後ろに小柄な影が姿を現した。
「ハーイ、バーティ! リックがお待ちよ〜」
 キャンディの陽気な声に、ロバートが顔を上げ、俺に気づいた。
「何だ、リック早いな。皆に聞いたんだけど、俺を探してたって? 悪かったな。忙しかったもんだから……」
 ロバートはそう言うと、背後に立ちつくしていた人物の肩に手を回し、ぐい、と前へ突き出した。
「リック、紹介するよ。義弟のヒロだ。実はこいつを探してあちこち駆けずり回っていてね。ツアーから戻った夜に行き違いになっちゃってさ。事務所のやつが別荘の場所を教えたんだが、わかんなかったらしいんだ。ホテルにもいないし、まったく焦ったよ。やっと見つけたと思ったら、なんか体の調子が悪いとかで寝こんでるし。こいつになんかあったら、日本にいる両親に俺が殺されちまう」
 俺は、ロバートの脇に突っ立ったままの彼を、じっと見下ろした。
 彼も、黒い瞳で睨みつけるようにこちらを見上げてくる。明るいオフィスで見る彼は、なるほどハタチには見えなかったが、初心で、清潔で、生真面目そうだった。
 この男を、マネージャーが斡旋したベッドの相手と間違えたのだと訴えても、誰一人信じてはくれないだろう。
「ヒロ、こいつはリック。前に話しただろう? 俺が面倒見てる《ヘレネー》のメンバーで……」
 ロバートは、ゆっくりとわかりやすい英語で話した。だがその途中で、義弟がじっと俺を見つめていることに気づき、口をつぐんだ。
「ヒロ? リック?」
 俺はおそるおそる手を伸ばして彼の頬に触れようとした。
「ヒロ……」
 だが、二十センチも低い相手は、その手をパシッと払った。
「××△○×!」
 そしてぱっと背を見せて走り出す。
「おい、ヒロ!?」
 ロバートが焦ったような声を出す。
「リック、何だよ、おまえら知り合いなのか!?」
 俺は答えられなかった。なぜなら逃げ出したヒロの後を全速力で追いかけ始めていたからだ。
「おいリック! 説明しろ! リック! リチャード! リカルド・サンチェス!!」
 ロバートの怒鳴り声を背に、俺は廊下を駆け抜けた。
「くそっ、ちっこい癖にすばしっこい……!」
 驚き顔のメンバーと擦れ違い、カートを引いた掃除婦のおばちゃんにぶつかり、こぼれたバケツの水に滑って転びかけながら、俺は階段のところで、ようやく彼を捕まえた。
「ヒロ!」
 嫌がって身をよじる相手を腕の中に抱え込む。
「ヒロ、ヒロ。会いたかった……」
「やめろ! 放せってば! イヤー!」
 俺はうっとりと囁いたが、相手は激しく怒っているらしく、風呂嫌いの猫のように暴れまくった。
 顔を引っかかれ、髪を引っ張られ、さんざん足を踏まれたが、俺は腕を放さなかった。
「ヒロ、ヒロ、キスしていいか?」
「××△!」
 ヒロは俺の顔を見上げて、強い口調で何かを言った。
 俺には意味がわからない。だから体でコミュニケーションをとるしかない。
 きらきら光を放っている黒い瞳を覗きこみ、一文字に結ばれた唇を見て取って、俺は彼の放つ信号を読み取った。
 オーケーということだな。
 俺の解読は正しかったらしい。
 なぜかというと、俺が唇を寄せたとたんいっそう激しく暴れ出した手足からも、固く結ばれた口元からも、辛抱強くキスを繰り返すたびにだんだんと力が抜けていったから。
 やがて彼の唇が柔らかくほころびると、俺は背中に回された腕を感じながら、黒曜石の瞳がゆっくりと閉じられていくさまを、楽しみながら見守ったのだった。


【Fin.】
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