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猫とねずみ
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(三)


「親父、一本頼む。肴は適当に見つくろってくれ」
 宗三郎の言葉に胡麻塩頭の親父は、黙って頷いた。
 既に何度かこの店を訪れていた宗三郎は、ようやくこの台詞がすらすらと言えるようになったところだった。
 毎晩酒気を帯びて帰っては、父もいい顔をしないが、七日に一度、十日に一度と、宗三郎は一人の時間を少しだけ楽しむことにしていた。
 江都の言った通り、知った者に会わないという安心感は宗三郎を日々の息苦しさから解放した。
 もちろん、十手を見せびらかさずとも、身形から宗三郎が町方同心であることは明白であろう。ひょっとして自分の名を知る者もいるかもしれない。だが少なくともこちらが知らないというだけで、宗三郎は十分だった。気を使わなくていい。
 数度通うだけで、すでに馴染みの顔もできていたが、互いに挨拶すら交わさず、目が合えば向こうが軽く頭を下げる程度だった。
 宗三郎も滅多に店内を見回したりしなかった。壁の汚れや器のきずを見るとはなしに眺めながら、必ず銚子を一本だけ、長居もしなかった。
 その日は左手で緑色の石を弄びながら、仕事のことや家のことをぼんやりと考えていた。
 ふと、向かいの席に誰かが座る気配がした。せまいこの店では相席も珍しくない。さすがに遠慮してか、宗三郎の周囲は空いていることが多かったが、彼自身は別に相席だろうと全く気にはならなかった。
 緑の石。親指の先程の大きさである。
 片方は三角形にとがっており、微かに人の手で彫った模様のようなものがある。もう片方はぎざぎざと、明らかに割れた跡であった。
「わかったかい」
 宗三郎は初め、自分が話しかけられているとは気づかなかった。だが、長い指が伸びて、自分の掌から石をつまみ上げた。
「これは瑪瑙だな。こんなかけらでなけりゃあ、大した価値だぜ」
 宗三郎は顔を上げられなかった。その声に聞き覚えがありすぎるほどあったからである。
「どうした、唖になっちまったか」
「栄次…!」
 自分の声が震えているのではないかと思うと、宗三郎は怖かった。
「そうとも、俺さ。久しぶりだな、宗三郎」
 宗三郎は、思い切って顔を上げた。
すぐ目の前に、酷薄そうな男の笑みがあった。
 何度も夢に出てきた顔だ。
 つり上がった眦、薄い唇。
「死んだと思った……!」
「そうかい。なぜだろうな。死体は見つからなかったろう」
 そうだった。町方が乗り込んだ時、そこにあったのは多世と、盗賊らの死体だけだった。
 宗三郎は一人一人の顔を確かめた。栄次の体はなかった。それでも死んだのだとなんとなく思っていた。それは――
「俺が死んだ方が都合が良かったからだろうな」
「そんなことは――」
「あるさ」
 栄次は手を伸ばすと、宗三郎の手から猪口を取り上げ、口をつけた。
「なかなかうまいな」
「よせ、人が――」
「固ぇことを言うな」
 それでも栄次は店の親父を呼んで酒を追加した。
「お前は俺のことを奉行所に報告しなかったな。結局、仲間割れの挙げ句の相討ちってことでカタがついた。一部にはお前がやったんじゃねぇかって話も出てるそうだが」
「まさか。俺にできるはずがない」
「そうか? 俺にできることがお前にできねぇこともなかろう。寝込みを襲えば多少の数がいたって恐るに足らずさ」
「やっぱり、あれはお前が……!」
 宗三郎は右手を強く握りしめた。
「そうとも。奴らにはいろいろまずいことを知られたんでね」
「俺にそんなことを言っていいのか、ただでは済まないぞ……!」
 栄次は低い声で笑った。
「お前のためでもあるのさ。多世のことを思い出せよ。それと狂っちまったあの娘のこともな。仇をとりたいといっぺんでも思わなかったたぁ、言わせねぇぜ」
 そんなことはない、と宗三郎は激しく首を振った。
「それに奴らが全員死んだと聞いた時、お前は間違いなくホッとしたはずだ。盗人共は死んだ、多世は死んだ、おきみだって似たようなもんだ。あの晩のことは誰一人知りはしねぇ」
 察して引こうとした両手首を、栄次は素早くがっちりと掴んだ。
 そのまま身を乗り出し、耳元で笑う。
「俺が死ねばな……残念だったな」
「放せ……」
 掴まれた手はびくりともしなかった。自分と大して変わらぬ細身の体つきをしていながら、栄次は涼しい顔でこちらの動きを封じていた。
「なぜ今ごろ、俺の前に……」
「今ごろ? おかしなことを言いやがる。俺がお前に一息つかせてやってただけじゃねぇか」
 店の親父が近づいてくると、栄次はするりと手を放し、何事もなかったように身を引いた。
 掴まれたあとがしびれるように痛む。
 親父が銚子を置いて去ると、世間話でもするような口調で栄次は言った。
「あれで終わりと思ってたのか? かわいそうにな。誰にも知られず、そのうち忘れでもすりゃ、なかったことにでもできると思ったのかい? そうはいかねぇんだよ」
 突然、卓の下で、栄次の膝が裾を割って素早く入り込んできた。
「よせ……!」
「俺もお前も知ってるんだからな」
 男の尖った膝頭が、腿の内側を擦った。
「やめろ、やめないと……!」
「大声を出すな。お前を困らせるつもりはないのさ」
「こんなことをしておいてよくも……!」
「わかった、わかった」
 栄次はあっさりと足を引いた。
 だが彼が目の前にいるだけで、両手は捉えられたも同じ、足は触れられているも同じだった。
 一度は自分を蹂躪した男の体に、宗三郎は無意識ではいられない。
 それどころか、無理に押さえ込んでいた一夜の記憶が、堰を切ったようにあふれ出し、宗三郎の体をがんじ絡めにした。
 やめろという自身の制止の声を振り切り、長い指や熱い舌の感触が次々と蘇っては肌を粟立たせる。
 吐息を漏らす僅かに開いた唇を、栄次が楽し気に眺めているのに気づいても、もうどうにもならなかった。
 ただ姿を現すだけで、なんと簡単にこの男は自分の日常を崩すことができるのだろう。
「いったい俺にどうしろというのだ……!」
 宗三郎はとうとう泣き声を漏らした。
「さてね……」
 栄次は宗三郎の右手に猪口を握らせ、酒を注ぎ始めた。
 震える手でそれを受ける。
 だが、酒がいっぱいになっても栄次は注ぐのを止めようとはしない。それどころか、徳利を持った手を少しずつ上に上げて行く。
「おい……?」
 宗三郎もつられて右手を上げたが、酒は容赦なくこぼれて腕を伝わった。
「栄次…!」
 相手は薄笑いを浮かべたまま、あふれていく透明な水を眺めている。
 酒はどんどんこぼれ、袖口から入り込み、手首から肘を伝わって脇の方まで流れ込んだ。
 その冷たい感触に、ぞくりと体が震える。
「どこが濡れた。舐めてやろうか」
 囁かれて、猪口を掲げた宗三郎の右手が大きく振れた――。
 受け手を失った酒は卓を濡らした。
「おっと勿体ねぇ」
 栄次は笑いながら徳利を下ろした。
「親父、すまねぇ、粗相をしちまった」
 立ち上がりざま懐から銭を取り出し、卓の上に放る。
 俯いたままの宗三郎を見下ろし、猫なで声を出す。
「来な。着替えのできるところを知ってるぜ」


「お前は人でなしだ……」
 宗三郎は仰け反って泣き声をあげた。
「そうだ」
 その口を栄次は上からふさぎにかかる。
「俺を駄目にする……」
「そうとも、お前を目茶苦茶にしてやろう」
 震える舌を歯で挟み、引き出して舐めてやると、宗三郎の喉が小さな音をたてた。
「けどすぐってわけじゃねぇ。だんだんとな。ゆっくりだ。いいか……」
 それはもはや睦言でしかなかった。
 宗三郎は帯を解かれ、下帯を外されて、すでにすっかり観念した様子だった。
 行灯の灯に、うっすらと汗の膜に覆われた肌が橙色に浮かび上がる。
 滑らかな平面に二つ立ち上がった小さな突起を爪で掻くと、魚のように下肢が跳ねた。
「いっそ殺し……」
 うつ伏せにし、腰を上げさせると、屈辱的な恰好のまま、宗三郎は呻いた。
「ああ、いいとも……」
 栄次は、用意を済ませると、後ろからのしかかった。
「だけどそいつも、ゆっくりとだ……」
 言葉どおり、栄次はゆっくりと進めていった。
「うーーーっ」
 宗三郎の背が絶妙な曲線を描く。女と違って肉のない背中は彼の痛みと快感を見る者に直接伝えてくる。
 栄次は身をかがめてその背中に口づけた。
 その行為がさらに苦痛を強いるのか、再び悲鳴があがる。
「痛い? 苦しいのか? よしよし、今よくしてやるからな」
 繋がったまま、片手を前にまわし、萎えてしまったものを握りしめた。
「あっ……」
今度は僅かに体を丸める。宗三郎の背中は全く雄弁だった。
「どんな気分だ? 俺と同じか?」
 栄次はまるで聞いていない相手の耳元へ、辛抱強く何度も囁きかけた。
 ゆっくりと腰を動かしながら、荒い息の合間に休みなく語りかける。
「お前を奈落の底まで引きずりこんでやるが、いい所にも連れていってやる……いい子にしてたらな……」
 宗三郎はすでに頭をがっくりと落とし、両腕でそれを抱え込むようにして、下半身を揺さぶられていた。
「そうとも、俺に見せてくれ。俺は見たいのさ……お前が汚れていくのを……お前を、泥の中でのたうちまわらせてやる……!」
「栄…!」
 栄次の体の下で、祭りの夜、清廉な白い横顔を見せていた若い見習い同心が、濡れた声をあげた。
 栄次の体が震える。
 多くの女や男を抱いても、乾いた、残酷な心を満たすのは、なぜかこの声なのだ。
 この男だけが、栄次の心を濡らし、そこから執着という芽が顔を出す。それが美しい花を咲かし甘い実を結ぶはずもなく、栄次には、その根に絡め捕られていく自分自身が見えるようでもあった。
 だが、それでもいい。こちらも泥まみれになる覚悟がなければ、この男は手に入るまい。
 肉の快感に他愛なく喘ぐかわいい宗三郎。だがまだ完全に自分のものになったわけではない。今はまだ細い紐をその首に巻き付けただけだ。加減を誤ればすぐに引き千切って飛び去ってしまうだろう。
 さっさと羽根をもいでしまえばいいと知りつつ、それを惜しむ自分がいることに、栄次は気づいていた。
「栄次、栄次……!」
 宗三郎が何度も名を呼ぶ。体の奥を許した相手にだけ聞かせる、生の、あけすけな声だった。
 堪えきれず、栄次はそのまま精を放った。ほぼ同時に指先が濡れる。
 力を失った宗三郎の上に倒れこんだ栄次の顔には、自嘲の笑みが浮かんでいた。


 ふと気づくと、目の前にあの緑色の石が転がっていた。脱がされた時に懐から転げ落ちたらしい。
 宗三郎は指を伸ばした。信じられないほど体が重い。
「瑪瑙(めのう)だ」
 首の後ろで声がする。
 まだ栄次が体の中に入っていることに気づく。
 だが、どうでもいいと思った。
 こうしているのが、信じられないほど当たり前のことのような気がした。
「投げて寄越したのはお前か?」
「そうだ。お前、俺を追っ掛けてきたっけな…」
 栄次は眠そうな声で笑った。
 男が笑うと体の芯が震えた。
 宗三郎はもう一度石のかけらを眺めた。
 尖った三角…。
「栄次、これが一体何なんだ?」
「虎次の側に落ちてたのさ」
「虎次だって……稲荷神社の、あの男が? お前、あの男を知っているのか?」
「つまんねぇ野郎さ。いっぱしを気取ってるが、大したこたぁできねぇ。だが、そいつが不相応なもんを質屋に持ち込んだ。盗品だと気づいた店主が買いたたこうとして話がこじれ、虎次はそれを置いていかなかった」
「それって…この石のことか? これは一体何なんだ、栄次、知っているなら……!」
「おっと暴れるなよ。妙な気になっちまう。俺はいいが、お前はもう帰らないとまずいだろう……」
 栄次が乱暴に体を離し、宗三郎は思わず唇を噛んだ。
「勘定は気にするな。ここの女中とはいい仲なのさ」
 しゃあしゃあと言い捨て、手早く着物を身に付けると、振り返りもせずに部屋を出て行こうとする。
「栄次!」
「猫の墓を探しな」
 それが栄次の残した言葉だった。



(四)


「ああ、旦那じゃねぇですか」
 自身番を訪れた宗三郎に気づくと、又兵衛は慌てて奥から出てきた。
「こりゃ…どうなすったんで。この辺りに何か?」
 今月は南町が当番のはずで、又兵衛が不思議に思うのも無理はない。
「ちょっとな、話があるんだが……。昼は済ませたか?」
 宗三郎の誘いに、又兵衛は用心深そうな目を向けた。それでも周囲の者に後を頼むと、近くにいい蕎麦屋があるんで、と呟いた。
「清三のことでしょう」
 蕎麦を前にした又兵衛は宗三郎の顔を見ようとはせず、言った。
「なぜそう思う」
「旦那が聞きたがることっていやぁ、それしか思いあたらねぇ……」
 宗三郎は蕎麦を食べるよう勧めたが、又兵衛は箸をつけようとはしなかった。
 先に話を、という又兵衛に促されて、宗三郎は仕方なく切り出した。
「清三は猫を飼っていたのか?」
「えっ……」
 よほど問われたことが思いも寄らなかったのか、又兵衛は素っ頓狂な声をあげた。
「猫ですかい」
「そうだ。覚えているだろう、清三を川から連れ出した晩にねずみを連れていたのを。あの時、奴は猫が死んだと言っていた。お前はその猫を見たことがあるか?」
「ああ…そういえばそんなことを……。いや、奴は猫なんぞ飼ってなかったはずですがね。大体この前まで入牢してたんですぜ。清三がおかしなことを言うのはいつものことなんで、俺ぁ気にもとめませんでしたが……」
「そうか……」
 だが、稲荷神社の近くで会った時、清三はまた猫のことを口にしていたのだ。
「話ってのはそれで?」
「いや、あともう一つ。清三は何か値打ちのあるものを持っていたと聞いていないか」
「値打ちもん……」
 又兵衛はゆっくりと首を振った。
「奴が金目のもんを持っていたはずはねぇ。町のもんが面倒を見なきゃ、食うにも困っていたはずだ」
「だが、清三にはそれが金になるものだと気づかなかったかもしれぬ。奴がそういった物を手に入れる機会はなかっただろうか。盗んだりとか……」
 又兵衛は再び首を振った。
「確かに清三には盗みが悪いことだという頭はなかったが……代わりに周りの者が気をつけていたからね。簡単な仕事は任せたが、決してあいつを金目の物の側に一人で置いたりしない……あ、いや」
「何か思い出したのか」
 宗三郎は体を乗り出した。
「いや、盗みじゃねぇ。だが、親類に聞いたことを思い出したんで」
「なんだ」
「清三の死んだふた親の話でさ。何やら大家(たいけ)の息子が女中と駆け落ちしたんじゃねぇかって噂があったんで。何屋だか知らねぇが、店のもんをだいぶ持ち出したそうだ、とね。父親の方は清三がまだ腹ん中にいるうちに死んじまったが、母親の方は清三が十三、四になるまで生きてたね。あんな息子が生まれちまって、だいぶ苦労はしたようだが、たまには小遣いをやっていたようだから……」
「もし、父親が家から持ち出したものが残っていたとすると……」
「清三は母親の着物やなんかは大事にして、誰にも触らせなかった。たとえ値打ちもんだとわかっても、手放したりはしなかったろう……」
二人の間に沈黙がおりた。
 しばらくして、又兵衛は「それじゃ…」と、席を立った。
「又兵衛」
「へえ」
「お前は清三のことで何かを気づいている。こないだは人のいい奴だと言っていたはずだが。何を知っているんだ」
 又兵衛は卓に手をついたまま、低い声で答えた。
「昨日、虎次が死んだという知らせが…」
「それだけか? なんの根拠もなく虎次の死に清三を結び付けるはずはない」
 又兵衛はしばらく迷っていたようだが、結局は口を開いた。
「あの晩、清三の着物を始末したのは俺なんで……。最初は捨てちまおうと思ったんですが、清三には一枚の着物も惜しいだろうから、まだ着れるようなら洗ってやろうと思ったんでさ」
 又兵衛の声は苦渋に満ちていた。
「着物には血がついてました。だいぶ洗い流されていたが、どす黒い染みは間違いようがねぇ。ねずみに噛まれた時、だいぶ血が出てましたから、それだと思ってたんですが……」
 ゆっくりと首を振る。
「いや、無理にそう思おうとしてたんですね。何しろ量が多すぎた。そこへ昨日虎次の話を聞いて……」
 着物はやっぱり捨てちまいました、と又兵衛は言った。そして静かに振り向くと、旦那、と呟いた。
「あいつは…清三は変わっちまいました。たぶん、牢屋でだいぶ酷い目に会ったんでしょう。普段はおとなしいが、何かの拍子に暴れるようになったし、それに知恵がつきました。嘘がつけるようになったんで……」
 二度と牢屋には戻りたくねえ、と言ってました。そのためには罪を隠すことを覚えたんでさ……。



(五)


 宗三郎はその日の夕方、清三と会った橋へ戻ってきていた。人気がないのを確かめると、草履と足袋を脱ぎ捨て、着物の裾をまくり上げて帯に挟み込む。
 滑らないように気をつけ、ゆっくりと土手を下った。
水は冷たかったが、思った以上に浅く、岸近くは足首くらいまでしかなかった。
川底は泥でぬるりとしている。
 そのまま橋の下へ進むと、川はますます細くなって、橋ぐいの根元は土が露出していた。
 注意して見なければわからないが、一部土が盛り上がっている箇所がある。
 宗三郎は体をかがめて近づくと、両手で泥をかきわけた。
 ほどなく指先に固いものが当たった。
 取り出して泥を拭ってみると、それは緑色の石でできた小さな猫の置物だった。
 ずっしりと重かったが、顔の真ん中に大きなひびが入っており、右耳の部分が欠けている。懐の破片を取り出して確かめるまでもなかった。
「ねこ……ねこは死んじゃった」
 不意に背後で太い声がした。
 ぎくりと振り返る。清三に不意をつかれるのはこれで三度目であった。
 清三は川の中に立ち、片手に鳥籠のようなものを下げていた。
「おらがいない間に、虎次のあにきが母さんのねこを取った。返してくれと言ったのに……」
「それで殺したのか……」
 宗三郎は泥だらけの手で背中の十手を探った。
 無精髭でいっぱいの顔は悲し気だった。
「ねこが死んでしまった……母さんのねこが……」
「清三」
 なだめるように声をかけながら、宗三郎は十手を引き抜いた。
 途端に清三の目がぎらぎらと光り出した。
「おらを捕まえに来たんだな」
 おれは二度と牢屋にはもどらない、いっぱいに開かれたその目はそう叫んでいた。
 鳥籠を放り投げると、奇声をあげて飛び掛かってくる。
「くっ…」
 構え直す暇もなかった。
 宗三郎は岩のような肉体に押し倒され、泥の中に顔を突っ込んだ。起き上がろうとする首に太い指がかかる。
 ぐうっ。
 必死で暴れるが清三の体はびくともしなかった。
 すさまじい力だった。鼻の奥がつんと熱くなり、あっという間に気が遠のいていく。
 どん、という衝撃がきた。続いて、ふっと体が軽くなる。
 宗三郎は慌てて相手の体から抜け出した。
 咳き込みながら口の中の泥を吐き出す。
 はっと気づいて見上げると、鼠色の空に遠く白い月が浮かび、両手を掲げて立ち上がった、手負いの熊のような清三の姿があった。
 その背にしがみつく影が見える。
「栄次……!」
「まったく手間のかかる野郎だぜ」
 清三の喉元には手拭いが巻きついていた。栄次は交差した手拭いにぶら下がり、自らの重みで清三を締め上げているのだ。
背中の栄次を振り落とそうと、清三がはげしく両手をふりまわす。
 宗三郎は尻餅をついたまま、身動きもできなかった。
 やがて、清三はだらりと両腕を垂らすと、背中に栄次をしがみつかせたまま、派手な音を立てて川の中に仰向けに倒れた。
「栄次!」
 慌てて立ち上がり、清三の巨体を水から引っ張りあげようとする。
「くそっ、鉛みてぇに重たい野郎だ」
 ずぶ濡れになった栄次が水面から顔を出す。
「栄次!」
 安心して思わず放しかけた清三の体を、おいおい、と栄次が掴み直す。
「死んじまったらお前が困るだろうが」
「息があるのか」
「たぶんな」
 二人は力を合わせて清三の体を岸に引き上げた。
 さすがの栄次も息をはずませている。
「ちっ、本当に何食ってこんなにでかくなりやがったんだ」
 忌ま忌ましげに蹴飛ばす栄次を、宗三郎は止める気にもならなかった。
 清三の横に体を投げ出し、そのまま指一本動かす気にもならない。
 どこかでキー、という泣き声がした。
「なんだ?」
「あ、ねずみ……」
「ねずみ?」
「清三が飼ってたんだ」
「ねずみをか、つくづくおかしな野郎だぜ」
 ぶつぶつ言いながらも栄次が立ち上がる気配がする。
 宗三郎は目を閉じたまま、栄次のたてる水音を聞いていた。
「放してやったぜ」
 空の鳥籠が投げ捨てられる音がした。
 鳥籠でねずみを飼う。
 栄次が放してやらずとも、ねずみはすぐにでも竹ひごを食い破り、逃げ出していただろう。
 愚かな清三が哀れだった。
「え…」
 宗三郎は何かを言おうとし、唇をふさがれた。
 泥の味がした。
 髪も着物もべったりと汚れている。
 ひどい臭いだ。
 ひどい恰好だ。
 気持ち悪い――。
 すぐ隣で、目覚めた清三の呻き声がする。
 早く起きねば、と思いながら、宗三郎は目を閉じたまま、舌を伸ばして栄次の口内の泥を舐め取った。
【終】
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