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-1- 宗三郎は少しばかり酔っていた。自覚はなかったが、あとから考えてみれば、火照った体を持て余していたのだろう。あのような時間に一人、人気のない橋の上でぼんやりと夜風に当たって過ごすなど、全く彼らしくない行為だった。 すでに日頃の帰宅時間はとうに過ぎており、帰れば父、伴蔵の小言が待っているだろう。母は何も言わぬが、かばってくれることもない。父の後ろに黙って控えているだけだ。 宗三郎は時に、この養父母を煩わしいと思うことがあった。そして秘かにそんな自分を恥じた。 二人が特に宗三郎に辛くあたるわけではない。佐垣家の跡継ぎとしてきちんと自分をたててくれる。実の親の細やかな情愛さえ記憶にない身には、親子とはこんなものなのだろうという思いしかなかった。 ただ、佐垣の父母には、常に義務という言葉が強く結び付けられ、若い宗三郎には息苦しく感じる時があるのだった。 無意識についたため息が風に乗っていった。 江都に連れられて入った小さな飯屋は、考えていた以上に宗三郎の気に入った。 本所堀川町にあるその店は、せまい上に見すぼらしく、もちろん侍の立ち寄るような店ではない。だが、店の親父も他の客らも江都の存在には慣れた様子であった。 酔って大声で騒ぐ者などいない。飯を済ませてさっさと席を立つ職人らしい若い男、一人手酌で安酒を飲む老人など、互いに構わない皆の様子が、神経質な宗三郎を安心させた。 酒は極上とは言えないがそれなりに吟味してあり、値段のわりには旨い物にありつけるのだという。薄暗い中注意して見れば、床は丁寧に掃き清められ、器の類も清潔だった。 「お前の気に入ると思ったよ」 江都は優しい目をして笑った。そして俺はもうここへは来ないから、と言った。 「この店はお前に譲ってやろう。知り合いに会わない、一息つける場所がお前にもあっていいさ」 宗三郎が江都を頼りこそすれ、会いたくないなどと思うはずがない。 だが、宗三郎がそう言っても、江都は 「先輩の言うことは聞いとくもんだ」 と、取り合わなかった。 俺の店か――。 嬉しいような、気恥ずかしいような、そしてなんとなく突き放されたような、寂しい気分だった。 ふう、と吐いた熱い息が、冷たい闇の空気をゆっくりとかき回した。 もう帰らねば――。 欄干に寄り掛かっていた体を放すと、ばしゃっ…とどこかで水の跳ねる音がした。 魚ではない、猫でも落ちたかと思って目を凝らしたが、それらしい影は見当たらない。 気のせいかとその場を去ろうとしたところ、今度ははっきりと水の中を歩く音がすぐ下で聞こえた。 「誰だっ」 宗三郎は誰何した。 応えはなく、再び、バシャバシャと動き回る気配がする。ちょうど足の下だ。 宗三郎は急いで橋の袂へまわり、用心しながら下を覗き込んだ。 「誰だ、出て来い」 川は細く浅く、橋の高さも子供の背丈ほどしかない。宗三郎の声に応えるように、背を丸めて動き回っていた影が、のっそりと姿を現した。 想像した以上に大きな体にぎょっとして、思わず刀の柄に手がかかりそうになる。 「ねずみが…」 相手はぼそぼそと言った。声は低く、おとなの男のものだったが、どこか舌っ足らずの、甘えたような口調であった。 「ねずみ?」 宗三郎が思わず聞き返すと、男の胸の辺りでキーッという鳴き声がした。 「こっちへ上がってこい」 宗三郎は刀の変わりに背中の十手を引き抜いた。 男は再び、もごもごと何事かを呟いた。川の中に突っ立ったまま、その場を動こうとしない。この暗さでは相手の顔など全くわからぬが、月明かりにかすかにきらめく水は、男の膝下を洗っていた。 「どうした、上がってこないか」 宗三郎が近づきかねていると、背後からばたばたと数人が近づいてくる気配がする。宗三郎の出した大声に近くの自身番が気づいたらしい。 「おいっそこの! 誰だっ」 「そこで何をしてやがる!」 勇ましい声が飛ぶ。 宗三郎は男から目を離さずに名乗った。 「こりゃあ、八丁堀の旦那」 宗三郎の身分を知った番人たちの声に安堵が混じった。 「どうしなすったんで……あっ、こいつは」 番人の一人が、提灯の灯を川の中の男へ突きつけた。 「お前、清三じゃないか」 「清三? 知っているのか?」 「へい、隣町の奴で…おい、清三、上がってこい」 番人が叱るように言うと、清三と呼ばれた男はようやくのそのそと川から上がってきた。 清三は腕まくりをしていた。宗三郎は、提灯の灯に照らされた太い腕に、前科のしるしである二本の入れ墨があるのを見た。 番人の一人は又兵衛と名乗った。初老だが、動作はきびきびとしており、全身から水を滴らせている清三の手を引くようにして自身番へと連れていった。 「ううっ、臭ぇ」 もう一人の番人、若い与八が顔をしかめて言う。 番屋の灯は大して明るくはなかったが、清三は何度も目をまたたかせた。 着物は泥まみれで、異臭を放っている。 単に濡れたというよりも、川の底でもはいずったかのような恰好だ。 近くに立つと、清三は宗三郎より頭一つ大きいことがわかった。体つきもがっちりとしている。顔は無精髭に覆われているが、案外若いのではないかと宗三郎は思った。 「旦那、近づくと汚れますぜ。おい、そのまま上がっちゃなんねぇ。そこで服を脱ぎな」 又兵衛が手をかけると、そこで、キー、という鳴き声がした。 「あっ、こいつ、何か持ってやがる」 与八が覗き込もうとすると、清三は嫌がって体をひねった。 「何を隠してやがるんだ」 手で払われた与八がカッとして飛びつこうとするのを、宗三郎が制する。 「ねずみだと言っていたが……」 宗三郎の声音にわずかに安心したのか、清三はおどおどと懐に入れていた左手を外へ出した。 「なんだ、本当にネズミじゃねぇか。汚ねぇな」 ねずみは大きな清三の掌の中で、またキーと鳴いた。濡れているので小さく見えるが、しっかりと大きな、いわゆる溝鼠である。太い尻尾を振ると泥が飛んで、宗三郎は思わず顔をしかめた。臭い匂いの原因はこれだったのかもしれない。 「ねずみ…おぼれていた」 清三はおどおどと言った。 「おぼれていたんじゃねぇ、あの辺に住んでやがるんだ。捨てて来い」 又兵衛の言葉に清三は首を振り、これを飼うのだ、と言った。 猫が死んでしまったから、今度はねずみを飼うのだと。 「おい、こいつ頭が…」 言いかけた与八の言葉を又兵衛が横からさえぎった。 「おい、どっかでこいつの着物を調達してきてやんな」 「どっかって言われても、俺んとこには余分の着物なんてねぇよ」 「だったら、俺ん家へ行け。言やぁ、嬶(かかあ)が出してくれる」 与八は口を尖らせながらも、年上の又兵衛の言うことには逆らえないらしく、しぶしぶと番屋を出ていった。 「旦那、こっちへお上がりくだせぇ」 又兵衛の言葉に宗三郎は首を振った。怪しい人物でないとわかれば長居するつもりもない。だが、なんとなく立ち去りがたい気分でもあり、式台の上へと腰を下ろした。 又兵衛は玉砂利の上に清三を立たせると、手際よく着物を脱がせてやった。清三はされるがままである。 すでに人通りはなく、隣の木戸番から頬被りをした男が顔を出したが、又兵衛はなんでもない、というように手を振った。 手拭いでざっと体の泥をぬぐってやりながら、又兵衛は声をひそめて言った。 「与八の言う通り、清三はちょっと頭の方がゆるいんで。けど、人はいいんです。おかしな行動は取りますが、滅多に乱暴を振るったりはしねぇんで」 「だが、前科者のようだが」 宗三郎は褌一丁で手の中のねずみを大事そうに撫でている清三を横目で見ながら言った。春が近いとはいえ、そんな恰好でいて寒くはないのだろうか。 「悪い奴に騙されましてね。虎次っていうやくざな野郎で。なにがいいんだか清三はこいつを慕ってましてねぇ。虎次の野郎も、ほら、清三は力も強いし頭は鈍いから何かに使えると思ったんでしょう、ちょくちょく小遣いをやったりしてたんですよ」 「盗みの片棒でもかついだか」 「へえ」 又兵衛は頷いた。 「女物の反物を店先でくすねましたね。その場で捕まっちまって……。あの図体でおかしな仕種をしてりゃあ、見つけてくれって言ってるようなもんでさぁ。だいたい、清三が女の反物なんか欲しがるはずがねぇ。虎次の奴に言われたに決まってるんだ」 キー、という鳴き声がした。清三が右手の人指し指をくわえている。どうやら噛まれたらしい。 「ああっ、ほら、言わんこっちゃねぇ。血が出てるじゃねぇか」 又兵衛の言葉に清三は恥ずかしげに顔を振り、脱ぎ捨ててあった濡れた着物で指をぬぐった。 「それで虎次は捕まらなかったのか」 「清三が頼まれたとは言いませんでね。かばうつもりがなくてもうまく説明できるような奴じゃねぇんで。まぁ入れ墨と敲(たた)きのお仕置きで済んで幸いでしたが……」 又兵衛は、ふ、と言葉をとぎらせ、今は町内の者で面倒を見てます、と付け加えた。 ふた親は死んじまってね。言われたことはおとなしくこなすんで力仕事なんかを手伝わしてるそうで。親類が近所に住んでるんで、俺も一時相談にのったんでさぁ……。 宗三郎は、そうか、と言って式台から腰を上げた。 「では後のことはそちらでよろしく頼む」 又兵衛はへぇと頷き、提灯に火を入れてくれた。 「清三」 去り際、声をかけると清三は指先から流れる血を嘗めながら、にっと笑った。 宗三郎は続ける言葉を思いつけず、黙って番所を後にした。 男は腹と胸の二カ所を刺されていた。凶器の匕首は血に塗れてすぐ側に落ちている。 すぐには死ななかったらしく、顔は苦悶にゆがんでいた。 「ふむ」 宗三郎が死体を検分している間、辺りを一回りしてきたらしい江都が、下っ引きを連れて帰ってきた。 「向こうは田畑ばっかりだ。これじゃあ多少の声を上げても聞こえるめぇ」 男の死体は亀戸町の小さな稲荷神社の鳥居の下に倒れていた。周囲は小さな林になっている。 「近頃ここらにやくざな奴らが溜まってたってぇ、証言もあります。ちょっかいを出された娘もいるってぇ話で、日が暮れたら誰も近づこうとはしなかったそうで……」 下っ引きの一人が横から言った。 「とすると、仲間割れか……。どっちにしろ、ろくな奴じゃなさそうだ」 宗三郎は頷いた。男の肩に彫り物があるのは二人とも確認済だった。 宗三郎の向かいにしゃがみこんだ江都が、ふう、と大げさなため息をつく。少し驚いて顔を上げると、にやりと笑った顔があった。 「お前の代わりについてやったのさ。そういう顔をしている。どうした? 昨日の酒か? それともまだ殺しには慣れねぇか」 どちらも図星だったが、宗三郎は慌てて首を振った。 「やくざ者でも殺しは殺し。身元を洗え。お前に任せる」 江都は笑みを引っ込めると、叱りつけるように言った。 その厳しい口調に、側にいた者たちが驚いたようにこちらを見たのが気配でわかる。 宗三郎は下を向いたまま立ち上がった。 数カ月前、盗賊たちに捕らわれた宗三郎は、気の狂った娘を連れて逃げ出したところを助け出された。 娘は親元に戻ったが、未だに正気を取り戻していない。 宗三郎がこの件で咎められることはなかった。周囲の者――両親でさえも――は、いっそわざとらしいほどその話を避けた。 江都は宗三郎を連れまわし、側において何くれとなく面倒をみてくれた。 自分はあの時そんなにひどい様子をしていたのだろうか、と後々何度も思ったものだ。そんなに皆が気遣わねばならぬほど? 確かにあの日以来、宗三郎は何度か夢にうなされた。夢の内容はその日によって違っていた。 汗だくで目が覚め、無性に喉がかわく。誰かの名を叫んで飛び起きることもある。 だが、江都はもう自分を甘やかすのをやめたのだ。距離を置き、突き放すことで自分を一人前の同心として扱おうとしている。 ありがたい、と宗三郎は思った。 血の匂いに浮かび上がってくる白い顔を、追い払うように軽く首を振る。 そうでなければ俺も忘れられない。死んだ娘、隣室の悲鳴、あの夜起こったことを――。 宗三郎は立ち上がりかけてハッとした。 稲荷神社の周囲には野次馬が集まり始めていたが、その中に見覚えのある顔を見たような気がしたのだ。たった今、脳裏に描いていた男の顔。 もう一度目を凝らす。 だが、見たと思った顔は消えていた。 気のせいかもしれない。 その時、目の端に、角を曲がっていく影が見えた。 「おい! どこへ行く、宗三郎!」 慌てたような江都の声を背に、宗三郎は駆け出していた。 確かに追っていたと思った足音は消えてしまった。 自分の荒い息と動悸だけがむやみに大きく聞こえる。 やはり見間違いだったのだろうか。事件のことを考えていたせいで、まぼろしを見たのかもしれない。 苦笑しながら踵を返そうとすると、どこからかぽーんと弧を描いて何かが飛んできた。 思わず両手で受けとめる。 見てみると、小さな緑色の石だった。何かの装飾品のかけらなのか、人の手で彫った形跡がある。 宗三郎は上を見た。 空は高く蒼く、今にも次の何かが落ちてくるような気がした。 だが、空から落ちてきたのではない。誰かが投げて寄越したのだ。 誰が――。 「え……」 言いかけて口をつぐむ。不意に背後に人の気配を感じたからだ。 慌てて振り替えると、大柄な男がぼーっとそこに立っていた。 「清三、お前がどうしてここに……」 一瞬、石を投げて寄越したのはこの男ではないかと思ったが、飛んできた方角から考えてそれはあり得ない。 「それ……おくれ」 「なに? この石のことか?」 宗三郎が問うと、こくりと頷く。 「この石をどうする」 「ねこ……」 清三はもごもごと言った。 宗三郎は眉をしかめた。昨日はねずみを連れていたが、今度は猫か。どうもこの男はよくわからない。 「ねこの墓に……」 「猫の墓…? 死んだのか?」 清三は頷いて、子供のように片手を出した。 そう言えば、昨晩も猫が死んだというようなことは言っていたが……。 「おくれ」 清三が一歩近づいたので、宗三郎は思わずあとずさる。 「駄目だ、これは……」 石のかけらを握りしめる。 「知り合いから預かったものだから――」 なぜ、そんなことを言ってしまったのだろうか。 だが、宗三郎はこの石を清三に渡したくはなかった。 清三はしばらく宗三郎の顔を見ていたが、手を引っ込めると、黙ってその場を去って行った。 なぜ彼はこんな場所にいたのだろう。清三の住まいがどこかは聞きそびれたが、昨日出会った場所から考えると、間違っても偶然通り掛かるといった距離ではない。 宗三郎は、いつの間にか自分が汗をかいていたことに気づいた。 稲荷神社で死んでいた男の身元は容易には割れなかった。 宗三郎は江都から人手を借りてあちこち聞き込みに走らせたが、全ては徒労に終わった。 たむろしていたというやくざ者たちは、皆きれいに姿を消していた。 そのうち、今度は小舟町で大規模な土蔵破りが立て続けに起こり、奉行所の注意はそちらへと向いていった。 結局、稲荷神社の殺しは下手人が上がらぬまま月の代わりを迎えようとしていた。 |
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