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かどわかし
-2-




「死ぬことはなかった、死ぬことは……」
 暗がりで、宗三郎はうなだれたまま、呟き続けた。
 多世の、生前の姿が脳裏に浮かぶ。それは墓で会釈を交わした時でも、男たちに連れ出される最後の姿でもなく、なぜか、手桶を下げて去っていった、あの後ろ姿なのだった。
「知り合いだったのか」
「いや今日、初めて会ったのだ」
 栄次の問いに、宗三郎は無意識に答えていた。相手の声音がどこか優しい、気に障らぬものだったからかもしれない。
「あの女は助けも呼ばなかった。最初から腹をくくってたに違いねぇ」
 栄次の言葉に黙って頷く。
 自分が意識を取り戻した時、多世は恐ろしいほど落ちついて見えた。
 自分がどんな目にあうかわかっていて、すでに覚悟を決めていたのだろう。
「だが、死ぬことはなかった……」
 宗三郎は力なく繰り返した。
 隣室では男たちの笑い声や卑猥な叫びが続いている。
 しらけた空気を盛り上げようと、酒を飲み、残った女をよってたかって犯す。おきみの悲鳴はもう聞こえなかった。
 多世が死んだことで、おきみは正気を失ってしまったのかもしれない。
 それでもいい、とさえ宗三郎には思えた。生きていてさえくれれば。死なないでいれば。
「わからねぇな」
 相変わらず縛られたまま転がっている宗三郎の横へ、胡座をかいて座った栄次は冷やかすように言った。
「武士の娘が、体を汚されるくらいならと死を選ぶ。考えられねぇことじゃねえだろう」
「なにッ」
 宗三郎はキッと顔を上げた。
「ではお前は、多世殿は死んでよかったと思うのか、あれで、あれでいいと言うのかっ」
「おっと、俺にそれを聞くのはお門違いってもんだろう」
 薄笑いを浮かべて栄次が片手を振る。
「生きて恥を受けるよりは腹を切る、そりゃお前さんたち侍の生き方だろうがよ。あの娘が舌を噛み切ったとどこが違うんだ。大したもんだって褒めてやるんじゃねぇのかい」
 答えることはできなかった。
 その通りだった。ならず者共に体を任せるよりはと、純潔を守って死んだ多世の選択は、女とはいえ、武門の家に生まれた者としての心得を立派に守ったと評してよい。
 だがそれで良かったとは宗三郎にはどうしても納得がいかないのだった。
「いやだ、いやだ……」
「なぜだ」
「それは――」
 それは、宗三郎自身が多世に生きていてほしかったからだった。
 身勝手と攻められようと、宗三郎は多世に死んでほしくなかったのである。
 たとえ、武士としてそれが恥ずべき行為であっても……。
 再び、栄次が低く笑ったようだった。
 ふと、なぜこの男の笑いに腹が立たないのかと思う。多世が死んだのはお前たちのせいだ、と詰め寄ってもいい。
 罪もない娘が犯される気配がすぐそばでする部屋で、自分を殺そうという男たちの一人と一緒にいて、警戒心も闘争心もわいてこないのがおかしい。
 今になってようやく、宗三郎はこの栄次という男について興味を抱いたと言ってよい。
「お前にそれを言う資格があるかどうか、試すってのはどうだい……」
「資格…?」
 いつの間にか、栄次の声は思ったより近づいていた。宗三郎は無意識にあとずさる。
「ああ。あの娘に死ぬなと言う資格がお前にあったのか。あっちの娘にも…」と、隣室に顎をしゃくって示し、
「生きていろと言うことがお前にできるのか……」
 男の手が襟元にかかった。
「自分の体を張って、試してみろよ……」
 近づいてくる顔に、宗三郎は激しくかぶりを振った。首領と栄次が交わしていた会話がよみがえる。
「何を馬鹿な!」
 栄次は大きな男ではなかった。体つきはほぼ自分と同じ、だが、腕をつかまれて振りほどくことはできなかった。
「お前は気が違っている!」
 宗三郎が吐き捨てると、意外なことに栄次はまぁな、とあっさりそれを認めた。
「ここまで乗り込んでくるとは、俺も自分でそう思わねぇでもねぇんだが」
 などと、意味のわからぬことを言う。苛立ちを隠せず、宗三郎は怒鳴った。
「俺にかまうな。俺はどうせ明日には殺される。お前も聞いたろう」
「逃がしてやってもいい」
 宗三郎は、一瞬もがくのをやめた。
「なんだと」
「シッ」
 栄次が声をひそめる。
「でけぇ声を出すな。隣に聞こえるだろう」
 内緒話のためなのか、宗三郎の耳に口をつけるようにして囁く。耳朶に直接息があたる。
「本気か」
「まぁな。俺は、実はこの仕事に乗り気でねぇんだ。義理があって引き受けはしたが、あんな奴らじゃ後ろに手がまわりかねねぇ。隙を見てとんずらするつもりなんだ。行きがけの駄賃にお前を連れてってやってもいいぜ」
 不意に襟元から冷たい手が忍び込んできて、宗三郎は総毛立った。
「――仕事ってのは盗みか。お前は錠前を……い、痛ッ」
 乳首に爪を立てられ、宗三郎は小さな悲鳴をあげた。
「今はそんなこたぁ、どっちでもいいだろう」
 栄次は冷やかに言った。今までの軽口が嘘のようなどすの利いた声に、宗三郎はあわてた。
「わ、わかった。今はそのことは言わぬ」
「いい子だ」
 栄次は短く言った。
「だ、だが、信じられると思うか。お前が本当に俺を逃がしてくれるかどうかは……」
 迷いの混じった口調は、つまり、宗三郎がすでに半分心を決めている証だった。
 そして、それを聞き逃す栄次でもない。
「信じるのも信じねぇのもお前の勝手。どっちみちこのままじゃ、殺されるぜ。賭けるも賭けねぇもお前次第さ…」
 躊躇(ためら)ってなかなか力を抜かない体をゆっくり押し倒しながら、栄次は獲物を捕らえた獣のように、満足げに目を細めた。

 
「口を開けな…もっとだ、そう……」
 尖った舌と同時に相手の唾液が送り込まれてくる。溢れたそれは喉を伝った。
 上顎を舐められる感触に、宗三郎は体を震わせた。
 触れ合った部分から、男が喉で笑ったのがわかった。
 顔を離して、からかうように聞いてくる。
「女は知ってるのかい」
「し、知っているとも」
 抱いたのは色街の女だった。誘われて、いずれは行かねばならぬような気がして、見世へ上がったが、緊張のためか、あまり楽しいとも思えなかった。
 女は美しかったが、それだけだ。
 町を歩いていていいと思う娘がいないわけでもない。若く真面目な宗三郎に好意を寄せ、思わせぶりな声をかけてくる玄人筋の女もいる。だが、そこから先へ進むのは、どうにも面倒な気がした。
 肉欲がないわけではなかったが、いずれ、一、二年のうちに嫁をとる。女はその未来の妻一人で十分だという思いがすでにあるのかもしれなかった。
「男は…」
「おとこ?」
「男は知っているのか」
 宗三郎は「あるものか」と言い放ち、執拗に耳をねぶってくるのを、うるさそうに首を振って払う。
 その憤然とした様子に、栄次は「本当らしいな」と独りごちた。「江都とかいう野郎の手がついてんのかと思ったが……」
 その言葉を聞き咎めて、宗三郎が身を起こそうとする。
「なんだと、お前、なぜ、江都さんのことを……あッやめろっ」
「静かにしろって」
 栄次は袴の紐をほどいた。足首を縛っていた縄は解いてあったので、それは簡単に引きずり下ろされた。
 裾を割って素早く片手が忍び込む。
「やめろっ、触るな」
 下帯の上から掴まれて、宗三郎は声を上擦らせた。
「触らねぇで、なにができるもんか。いい加減覚悟を決めやがれ」
 栄次はだんだんと形をとっていく手の中の感触を楽しむように、強く、弱く、握りしめる。
「せめて、手の縄を解いてくれ」
「そいつぁ、駄目だ」
「何もしない、逃げはしない、だから……」
「だって必要ねぇものな」
 栄次は宗三郎の訴えをあっさりと切り捨てた。
「お前の手は何をするも及ばねぇ。全部俺がしてやるさ」
「うっ、うっ」
 体の中心をなぶられて苦しそうに身をよじらせる宗三郎のじっと見下ろしながら、歌うように囁く。
「心配するな。やさしくしてやるさ……いい子にしてたらな」
 栄次の言葉は嘘ではなかった。
 長い指はあくまでも優しく宗三郎の体を攻め、抉り、撫でまわし、その度に宗三郎は呻かずにはいられなかった。
 すでに下帯も取られ、上半身も裸に剥かれ、ただし帯がそのままなのと、両手がしばられている為に着物は胴の周りにまとわりつき、残った。
 板の間に片頬をつき、四つん這いになって尻をまくり上げられている姿は、薄闇とはいえ、かなり恥知らずなものだった。
「はあっ、はあっ」
 だが、宗三郎にはもはや考える頭は残っていない。
 先端から零れ落ちる蜜をすくった栄次の指が後ろへまわり、微かな音をたてて尻の間を出入りする。
 寄せた眉の下、固く閉ざされた瞼は、自分の体がたてるその淫らな音を聞くまいとしているかのようであった。
「あ、ううーーっ」
 宗三郎が背を丸め、全身を痙攣させた。
 室内には既に精の匂いが立ち込めている。
 一度目の吐精ではすでになかった。
 栄次は尻をいたずらしているのとは別の掌でそれを受け、微かな笑みを浮かべた。
 宗三郎が自分の思うがままに這い、己の手の紡ぐ快楽に酔う有り様は、いくら眺めても飽き足らなかったが、今晩はそろそろ諦めねばなるまい。隣室の気配では、そろそろ男たちも女の体に飽いた様子である。
 それとも、すでにおきみの体が使い物にならなくなっているのかもしれなかった。
 こんなことは知らなかったという風に宗三郎が身をわななかせる度、栄次の下腹も重く疼いた。
 手早く前を開いて、取り出した自分のものに相手の精を塗り込める。
 宗三郎の後ろが十分に柔らかくほぐされたのを確かめ、栄次は片膝を立てた形でそれをあてがった。
「ううっ」
 さすがにその瞬間には、宗三郎は激しく身悶え、這いずって前へ逃れようとする。
 その尻を容赦なく押さえて、栄次は腰を突き入れた。
「や、やめろ……」
 さすがに一度目では宗三郎の声には苦痛が滲むばかりである。
 それを僅かながらも可哀相だと思う自分に、栄次は驚いていた。
 これきりには、しねぇぜ。
 闇の中、着物のはだけた白い背中が痛みに捩じれる。
 その背を不意に汚したくなって、栄次は寸前で己のものを引き抜いた。

 
「おい、しっかりしろ」
 ぴしゃり、と頬を叩かれた。
「奴らは眠った。抜け出すなら今だ」
 その言葉に、慌てて立ち上がろうとし、足を滑らせる。
「音をたてるな。どうした、俺は手加減したぜ」
 宗三郎の顔に血がのぼる。
 縛られていた両の手首はまだ痺れ、縄の跡がくっきりと残っている。男を受け入れていた箇所はもちろん、無理な姿勢をとらされたせいで、肩や肘までもが痛んだ。
 座敷への戸はいつの間にか開いていたが、火が消えかけているのか前のような明るさはなかった。
 男たちは座敷に土間に、ごろごろと横になっており、宗三郎のたてた物音にも起き出す気配はない。
「酒に薬を混ぜた。だが、長くは効かねぇ。さっさと逃げ出すに限る」
 頷いて、宗三郎は座敷の隅で壁にもたれているおきみの姿に気づいた。着物の前が無造作に開いて、投げ出した足が赤黒く汚れている。
「その娘は駄目だ。正気が飛んじまってる」
 宗三郎の視線に気づいて先に土間へ下りた栄次が首を振った。
 宗三郎がおきみの腕を取って立たせようとすると「放っておけ」と苛立たしげに言う。
 だが、宗三郎にそのつもりがないのを見て取ると、舌打ちして戻って来た。
「しゃがめ」
 言うとおりにすると、女を抱き上げて背負わせてくれた。
 目は開いているのだが、息をしているのかもわからないようなおきみは、大人しくおぶわれる。
 力の抜けた女の体は思いもよらぬ重さで、腰に力の入らない宗三郎は、立ち上がりざま大きくよろめいた。
「さ、早く。踏むなよ」
 栄次は猫のような敏捷さで入り口の戸に飛びつき、音をたてずに引き開ける。
 夜風が吹き込み囲炉裏の火は揺らめいて、ますます消えんばかりになった。
 宗三郎は言われた通り、男たちを踏まないのが精一杯で、ようやく土間へ下りた時はかすかに汗ばんでいた。
 外へ出ようと敷居をまたぐ際、何かが目の端をとらえた。
 柱の陰に、筵に包んだ何かが転がっている。
 何だろうと思うより前に、宗三郎は筵から覗く白い手に気づいた。
――多世、殿。
 宗三郎の胸に激しい憎悪が宿った。
 あのように生きて動いていた多世の体を、冷たい土の上へごみのように投げ捨てている男たちへの憎しみ。
 そして、彼女をこのままにして行かねばならぬ、自分の無力さに対する怒り。
「おい、早くしろ」
 宗三郎が見ているものが何かを知りながら、栄次が急かす。
――すまぬ、多世殿。忘れはせぬ。
 宗三郎は一瞬目を閉じ、それから思い切るように家の外へと出た。
「あ……」
 月が煌々と照らす下は、一面の田圃だった。黒々とした百姓地がどこまでも続いている。
 頭上の清浄な月と、足元の黒く湿った土、その取り合わせは、このような時だというのに一枚の絵にでもなりそうな風情があって、宗三郎を驚かせた。
「そうだ、俺の刀は……」
 呟く宗三郎へ、戸を元通りに閉めた栄次は諦めろ、と首を振った。
「この畦道に沿って進め。まっすぐ行けばいい。右手に山が見えたら、それが目黒不動だ。そのまま進んで橋を越えればいい」
 宗三郎は驚いたように栄次の顔を見た。
「お前は逃げないのか」
 てっきり一緒に行くものと思い込んでいた。
「逃げるとも、ただし、もうちっと後でな。野暮用が残ってんだ」
 女を背負った宗三郎が、月明かりの下、世にも情けない顔をしたので、栄次は思わず声を出して笑ってしまった。
 そんな顔をしていると、本人は全く気づいていないのだろう。
「俺が心配か」
 試しにそう言ってみると、気弱さは見る間に消え、仏頂面が取って代わった。
 つまらないと思いつつも、相応の男の顔を取り戻した相手にほっとする。
 一人ならまだしも、半分死んだような女を連れている。いつまでも惚けていてもらっては命を張った甲斐がない。
「さあ、行け。俺の目論見通りなら、江戸へ入らずに済むかも知らねぇ」
 宗三郎は、わかったようなわからないような顔で、それでもしっかりと頷き、おきみを背負ったまま、歩き出した。
 宗三郎もおきみも裸足だった。
 十歩ほど行ってから、迷いを捨てたように足を早める。
 栄次は二人が遠ざかっていくのをしばらく眺めていた。闇を弾き、なぜかどこまでも白く冴えるその姿を。
 それは初めて見た祭りの夜と同じであった。
 夜半の白鷺のようだ、と栄次は思ったのだ。

 
「いつまでも見惚れてねぇで、用意はいいのかい」
 背後から男の声がしたが、不意をつかれた様子もなく、栄次は前を向いたまま言った。
「市、お前、子供の頃を覚えているかい」
「なんだ、突然」
「俺は、その晩親父に殴られて――まぁしょっちゅう殴られちゃいたが――家を抜け出した。行くあてなんかねぇ、だだ闇雲に夜道を走ってった。こんな月の夜だっけ……」
 市は諦めたように、苦笑しながら相棒の思い出話を聞いている。
 栄次が駆けたという田舎の道は、自分も知っているはずだ。二人は幼なじみであった。
「走り疲れて俺はとぼとぼ歩いていた。月夜といっても足元は暗ぇ。まだ春先で田圃には水が張っててな、そこへ鷺が飛んできた」
「風流なもんだな」
 わけがわからず、茶々を入れてみるが、相手は気にした様子もない。
「田螺(たにし)でも狙ってきたんだろうが……子供心に、どうして夜目にもああ白いのか不思議だったねぇ。別に光ってるわけじゃねぇが、そこだけ他とは違うのよ。俺はわけもなくそれが欲しくて、泥の中に入って行った――勿論、すぐに逃げられちまったが」
 栄次は大して悔しそうでもなく、そう言った。
「それで? 代わりを見つけたってわけか?」
 栄次は笑った。
「そうじゃあねぇが……あいつを見ていると思い出す。俺は鳥を捕まえてどうしたかったんだろうとな。飼おうと言うんじゃねぇ。その白い羽根をもぎたかったのか、泥にまみれたところを見たかったのか」
「ろくでもねぇ」
「そんなもんさ」
 振り向いた栄次の顔は細い目が糸のように光って、まるで本物の狐だと市は思ったが、剣呑なので口には出さなかった。
 懐から匕首を出して栄次に渡す。
 素早く抜いて確かめ、すぐに鞘へと戻すと、栄次は「借りができたな」と呟いた。
「大してありがてぇとも思っちゃいねぇくせに何を言う」
「ふふ、神妙な振りをしてもお見通しってわけかい? だがお前の伝手(つて)ですんなり入り込めたのは確かさ」
 女を助けようとして宗三郎までもが連れ去られると、栄次は男たちの後をつけて隠れ家を突き止めた。
 そのまま強押し入るにはさすがに相手の人数が多すぎる。そこでひとまず市の手を借りに江戸へ戻ったのだった。
「お前ともあろう男がいつまでたっても手を出す様子がねぇ。阿呆面して相手を付け回してるってんでどうかしちまったのかと思っちゃいたが……まぁそれが吉と出たかな。いい思いもできたろう」
 大して羨ましげでもなく、市は言った。黙っていても女には不自由しない栄次が、なぜいつも面倒な相手に手を出そうとするのか、昔から理解できないのだ。
 そんな相手の気持ちを知ってか知らずか、栄次は忍び笑いを漏らした。
「なんだ」
「いや、今生の別れかとでも思ったのかね。あれの顔ときたら……」
「可哀相に。実際相手はそのつもりだろうよ」
「まさか、そうはさせねぇ。これからさ」
 栄次は人の悪い笑みを見せた。
 と、家の中で物音がした。
 市は表情を引き締める。だが、軽口を叩くのはやめなかった。
「全く、同情しちまうね。悪い男に見込まれたもんだ」
「おれのもんだ、誰にも文句は言わせねぇ。やつ本人にもな」
 再び、物音。続いて誰かがぶつぶつ言い出す声が板越しに伝わってくる。だが呂律が回らず、何を言っているのかは聞き取れない。
「あの男、一人手下よりいい酒を飲んでやがった。おかげでこっちは薬が加減できたが……。おい、江都の野郎はどうなってる」
 戸に耳をあてて、囁く。
「大丈夫だ。今頃はもう二人と出会ってるはずだ。間もなくここへ駆けつけるだろうよ」
「奴の手柄になるのは業腹だな」
 栄次がまんざら冗談でもなさそうに下唇を突き出した。
「奴が手に入れるのは下っ端だけだ。頭は渡せねぇ」
「ああ」
「あの野郎に女房を見られたのは失敗だった。生かしちゃあ、おけねぇ」
 恵比須と呼ばれる男が、一瞬裏の顔を覗かせた。
 ふっ、と辺りが暗くなる。月に雲がかかったのだ。
 だが、夜目の利く二人は、遠くにちらちらと提灯の灯を見て取った。
 頷き合う。
 市が片手で戸を叩いた。寝ている者を起こさぬよう、だが、起きている者には聞こえる大きさで。
「おい、役人が来る。早く逃げろ」
 戸が内から慌ただしく開く。
 栄次は右手で匕首を抜いた。

 
――あいつ、今度会ったらどんな顔をしやがるかねぇ。

【終】
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