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かどわかし
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「よッ、お帰りっ」
「どうした、元気がねぇぞっ、まだ祭りは終わっちゃいねぇぞっ」
 男たちの掛け声が重なり合い、山車(だし)が次々と神田の町へ戻ってくる。
桜の馬場から繰り出し、江戸城に入り、一日中町を練り歩いていた男たちの顔はさすがに汗と埃で汚れ、疲れが滲んでいたが、それでも地元へ戻ってきて、再び土地っ子たちの歓声が飛ぶと、提灯に照らされた彼らの浅黒い顔は、喜びと誇りに輝いた。
「そらっ、うちの神輿(みこし)だ!」
 ここぞとばかりに、山車の上のお囃子がチンチンドンドンと賑やかす。
 すでに日も暮れたというのに、人出は減ることなく、若い娘や家族連れまでもが繰り出して、神田明神祭の最後の盛り上がりを楽しんでいた。
 付き添いの提灯の明かりで沿道の人々の顔は真っ赤に輝いている。
 そんな中、職人らしいこしらえに祭りのはっぴを引っかけた若い男の二人連れが、目ぼしい娘たちを冷やかしながら、人並みに祭りの気分を楽しんでいた。
「悪くねぇやな、こういうのもな」
「へっ、おめぇ、いつから江戸っ子になりやがった」
 先にしみじみと呟いたのは、顔の丸い、人の良さそうな柔和な顔つきの男で、後者、苦笑しながら憎まれ口をたたいた方は、目が細く、連れに比べるとやや冷たい印象を与える顔だちをしていた。
 だが、どちらも中背の、目立たず平凡な男たちであることは変わらない。見るものが見れば固く引き締まった体つきや敏捷そうな身のこなしから、鳶か大工とでも思ったかもしれない。
「市、ありゃ誰だい」
狐顔をした方が、ふと何かに気づいたように、顎をしゃくって連れを促した。
 相棒は素早く辺りに目を走らせ、相手が何を指して言ったのかに気づくと露骨に顔をしかめた。
「よしなぁ、ちょっと見ためのいいのとくりゃあ目の色変えやがって。相手は侍、それも八丁堀じゃねぇかよ」
「知らないのか」
「ちっ」
市と呼ばれた男は苛立たし気に首を振った。
「知らねぇはずがあるかよ、このおれがさ。背中に十手を差した奴らで見分けのつかない顔はないってさあ」
「もったいぶらずに早く言いな」
「若い方は佐垣宗三郎(さがきそうざぶろう)。北町の若い見習い同心さね。年上のが兄貴株の江都亨介(えづこうすけ)、こっちゃあお前も名前くらいは聞いたろう」
「北町の江都、若いがなかなかの切れ物だって噂じゃねぇか」
「ふん、そうさ、ああいうのがいるからこちとら仕事がやりにくい。娘っ子共が江都様江都様って騒ぎやがるのも面白くねぇわな、あんな馬面の何処がいいって言いやがる」
 つり目の男はふぅん、と呟きながら、細い目をいっそうすがめた。
 問題の二人連れは、ちょうど今また一つ、牛にひかれた派手な神輿が通りすぎんとする道の向こう、かしましい見物客からは少し離れた物陰に立っており、黒い羽織の色もあって、ちょっと目には周囲の暗がりに溶け込んでいるのだが、そこはそれ、闇に慣れた彼らの目から逃れられるものではなかった。
 神田祭は山王祭と並んで江戸っ子が大張り切りする御用祭りである。揉め事が起こらないよう、町方もかなりの人数を監視に送り出していた。
 江都が何かを言ったらしく、佐垣がそちらを向く。
 体の大きな江都に比べると小柄に見えるが、実際はそうでもないのだろう。
 美童といった年齢では勿論なく、体つきや、真っ直ぐに通った鼻筋、頬や顎の骨格はすでに成人しつつある男のそれである。
 ただ、相手の言葉に唇を噛んでこくこくと頷いている仕種だけがどことなくまだ子供っぽいというか、頼り無い。
 提灯の明かりがほとんど届かぬ薄闇の中、生真面目そうな若い横顔が不思議と白く浮かんで見えた。
 同心たちは持ち場をかえるのか、行列がやって来る方角へ戻ろうという様子である。
「佐垣宗三郎か」
呟いた男はだらしなく銜えていた楊枝をペッと吐き出し、巻き羽織の二人連れの後をふらりと追い始めた。
「おい、よせって、栄次……」
置いていかれた方は呆れて呼び止めようとしたが、振り返る気配もないのへ、仕方がないとため息をつき、やがて続いてその場を後にした。

 


「もし、そこのお方、もし……」
 誰かに呼ばれたような気がして、宗三郎はぼんやりと目を開けた。
 室内は暗く、ほとんど闇に近かった。
 なぜ、目が覚めたのだろう。
 不審に思いつつ、もう一度眠りに落ちようと身動きをして、途端、全身を走る鋭い痛みに体を強張らせる。
 そこで、ようやく異変に気づいた。
 ここは八丁堀の屋敷ではない。
 頬の下にあるのは柔らかな布団ではなく、剥き出しの冷たい板の間であったし、痛む腹を無意識におさえようとした手は、ぴくりとも動かなかった。
 宗三郎は縛られていたのだ。
 両腕は後ろ手に、足首も一括りにされている。
「もし、大丈夫でございますか…」
 どこからかもう一度女の声が聞こえ、宗三郎は焦って身を起こそうとした。
「誰だ、どこにいる」
「よかった、気づかれたのですね……。ずっと目を覚まされないので心配いたしました」
 声は低く、宗三郎が意識を取り戻したと知ってからはさらにひそひそと聞き取れないほどになった。
 無意識に、宗三郎も声をひそめる。
「ここはどこだ、何も見えぬ。そちらからは俺が見えるのか」
 女は最初の質問には答えず、言った。
「私たちはあなた様の足元の方に。目はいずれ慣れてまいります」
「私たち……?」
 宗三郎が聞き返すと同時に、先の女とは別の、強いすすり泣きが同じ部屋の中で起こった。
「二人です、私たち…さらわれたのは……」
 ため息に近い、諦めたような女の声に、宗三郎はようやく全てを思い出した。

 
 今月の月番(つきばん)は南町であったが、非番と言っても遊んでいるわけではない。
 ただ、先月はこれといって大きな揉め事もなく、宗三郎が処理を任されている事件も一日を争うといった類のものではなかったため、彼が休みを願い出ても、特に咎める者もなかった。
「そうか、明日は御母堂の命日か」
 帰り際、江都がぽつりと言った。
 宗三郎は黙って頷く。
 この、公私に渡りなにくれとなく自分の面倒を見てくれる若くやり手の先輩同心を、宗三郎自身も頼りにし、彼にだけは生まれや家の事情なども話してあった。
 宗三郎は養子であった。
 実家には病床の父と、兄が二人いる。
 この家にはあまり良い思い出はない。
 父親は厳格な男で、子供を可愛がるような人間ではなかったし、まして自分は三男である。期待をかけられることもなかった。兄たちには苛められた記憶しかない。
 ただ、幼くして亡くした母親にだけは、ふと懐かしさを覚えることがあった。
 実際には顔もろくに思い出せないのであるから、優しい母親だったというのは単なる感傷かもしれなかったが。
 母、弥生の墓は目黒は白金にあった。
 一日をかけ、ゆっくりと参るつもりで、朝早く屋敷を出た。
 十月ともなれば朝晩は涼しいが、昼間はまだそれほどでもない。
 歩いていれば汗もかく。いつのまにか、ぐんと高くなった空を仰ぎながら、宗三郎は久しぶりに開放された気分で田舎道を楽しんだ。
 気持ちのいい晴天だった。
 長心寺は小さな寺で、一部の落葉樹はすでに色づき始めていたが、医師や僧侶が紅葉狩りに来るほどの風流な場所ではもちろんない。
 竹林に囲まれた墓地は人気がなく、ひっそりとしていた。
 いや、人がいないと思ったのは早合点で、宗三郎は母の墓から少し離れたところで、一人の娘が熱心に手を合わせているのに気づいた。
 十六、七か。
 着物は地味で洗い晒しだが、小ざっぱりとしており、髪形などから考えると武家の娘だろう。足元などきちんと歩く拵えをして、自分と同じように遠出をしてきたに違いない。
 娘はこちらに気づくと軽く会釈をし、借り物らしい手桶を下げて去っていった。
 宗三郎は背筋の真っ直ぐなその後ろ姿をぼんやりと見送っていた。
 男の目を意識した様子のない、悪く言えば色気のない、しゃっきりした歩き方が、墓参りという己の殊勝な気分に合う。
 だがどこか心ひかれるものがあったにしろ、その娘とはそれきりのはずだった。女を見初めたからといって、気安く声をかけることができるような宗三郎ではなかったのだ。

 
 押し込められた黴臭い部屋の中で、両の目がようやく闇に慣れてきた。
 あちこち痛む体に苦労しながら上体を起こした宗三郎の前に、あの娘の青白い顔があった。
 さらわれた……。
 そうだった。
 娘が去ってすぐ、宗三郎は墓の前で女の悲鳴を聞いた。
 駆けつけた彼が見たものは、地面に転がる杓と桶、そして、数人のならず者に竹藪へと引きずり込まれんとする娘の姿だった。
 女は暴れ、担ぎ上げられた足が宙を蹴っていた。
 その様子にカッとしたのか、それとも油断したのか、刀を抜くのに僅かな躊躇いがあったせいかもしれない。
 助けに入った宗三郎は、多勢に無勢で、男たちに殴られ、蹴られているうちに、気が遠くなっていった……。
 腰の大小はなくなっている。見回したが、まさかそこらに転がっているようなことはあるまい。
 何という失態だ。
 無様な己の姿に唇を噛む。
宗三郎は決して恵まれた体格をしているわけではないが、それなりに武芸の鍛練は積んでいる。単なるごろつきと甘く見たのがまずかった。
 自分を叩きのめした奴らは、明らかに人を痛めつけることに慣れていた。
「ここは……」
「わかりません、でもおきみさんによると、どこか大きな農家のようです」
「おきみ……」
 宗三郎は同じように縛られ、ただ泣くばかりのもう一人の娘に目をやった。
 おきみは自分の名が出ても顔をあげるでもなく、ただしゃくり上げるばかりであったが、察するにこちらは町人の娘のようであった。暗がりではっきりとはわからないが、多世とは対照的にぼったりと大きな頭をしている。
「おきみさんは、この夏体を壊して、この近くの寮で静養していたのだそうです。退屈なので、抜け出したところを奴らに……」
 その言葉に、おきみの嗚咽はいっそう大きなものとなった。
 しっ、と小さな声で娘がなだめる。そして、自分は浪人井岡幸三の娘、多世、とはっきりと名乗った。
 宗三郎も自分の名を教えた。町方同心であることを告げると、おきみがハッしたように身を乗りだしてきた。
「佐垣様、お願いです、お助けくださいまし、お助けくださいまし」
「もちろんだとも、必ず助け出してやる。だから心を強くもて」
 無論宗三郎が口にしたのはおきみをなだめるが為の気休めであり、縛られたままの彼には何の策もない。
 多世はといえば、すでに宗三郎の身分には気づいていたのか、特に何も言わなかった。
 おきみのように取り乱すこともなく、一見ひどく冷静にも見える。
 二人して泣き喚かれるよりは助かるが、若い娘がこんな目にあえばそれも無理がないと思われる。
 さすがに力は落としているようだが、多世の落ち着きぶりには宗三郎も内心舌を巻いた。
「奴らはどこだ」
「隣の座敷に……でも今はどこかへ出かけて行って、留守の者しかいないようです。ですからお起こししたのですけど……ああっ、しっ。もう帰ってきましたわ」
隣室へと続く板戸はあちこちヒビや壊れ目があって、明かりはそこから漏れている。
 がたがたと家の入り口らしい戸が引き開けられる音がし、続いて戻ってきた男たちの気配が伝わってきた。
 宗三郎は多世にならって耳をすませた。おきみも唇を噛んで嗚咽をこらえている。

 
『お頭、そいつは誰なんで』
『今度の仕事にゃあ、お前も知っての通り市を助っ人に呼ぶつもりだった。だがあの野郎、なんのかんのと言いつつ手を貸そうとしねぇ。あいつの女房の居所は押さえてあるからな。必要となりゃあ脅してでもと思ったんだが、今さっき、代わりにこいつを寄越しやがった』
 誰かが脇から何やら口を挟んだが、残りの者たちは立ったり座ったり、その物音にまぎれてよく聞き取れない。
『頼りになるんで、お頭』
『市の言うには、錠前破りでは奴に引けをとらねぇと。なかなかしゃらくせぇ口もきくが、腕が確かなら文句はねぇ。名は栄次だそうだ。せいぜいもてなしてやってくれ』
 その栄次とかいう男が低い声で挨拶めいたものを口にしたらしい。男たちは一瞬黙り込み、続いてどっと笑った。
 こいつら、盗賊の集団か――。
彼らのやり取りを聞いていた宗三郎は目を見張った。どうやら五、六人かそれ以上。かなり大がかりな盗みをたくらんでいるらしい。
 ちくしょう、こんな時に。
 宗三郎はどうにもならない両腕を背中でゆすった。
 だが、次の一声でぎくりとする。
『女たちはどうした』
『納戸です。例の侍と一緒に転がしてありまさぁ』
「いやっ」
 おきみが小さく悲鳴をあげる。さすがの多世も思わず彼女に身を寄せた。
 一人が畳を踏んで近づいてくる足音がして、がらり、と板戸が引き開けられた。
流れ込んできた光で部屋の半分がぱっと照らされる。宗三郎は素早く体を乗り出し、隣室へと目を走らせた。
 座敷は思ったより狭かった。ささくれだった畳はあちこちへこみ、薄汚れていて、土間への戸が開け放たれている。土間の囲炉裏には火が焚かれ、その周りをぐるりと男たちが取り囲んでいた。二人ほど見覚えがある。間違いなく、多世を襲った奴らだった。
 一人、浪人崩れか、総髪で刀を帯びている男がおり、これが首領らしい。
 男たちはそれぞれ百姓や行商人の恰好をしていたが、皆むさ苦しく垢染みていて、そのせいか家の中は異臭がしていた。一人だけ遊び人のようなあか抜けした身形の男がおり、これが新しく来たとかいう助っ人なのだろう。
「おっ、こいつ、気がついたようだぜ」
 宗三郎に気づいて、一人が言った。
「なんだい、そいつらは」
 栄次らしい男が頭に向かって横柄に問う。
「手下共がそこらで捕まえた女さ。このあたりじゃ、たいした美形だろう。仕事を前に面倒なことをするなと叱りもしたが、お前も仲間に入って見通しもたった。ちっとは息抜きさせてやってもいい。栄次、お前の好みはどっちだ」
「その侍はなんだ」
首領の問いには答えず、栄次は尋ねた。その言葉に含まれる何かに引かれて宗三郎が顔を上げると、無表情な涼しい面と眼が合った。
「馬鹿野郎どもが、とんでもねぇ荷物をかかえやがって。女をさらうとこを見られたらしい。邪魔されたってんで仕方ねぇから引きずってきたと。男じゃ何の役にも立ちやしねぇ」
「そうでもねぇぜ」
 栄次は意味ありげに笑って、宗三郎の側まで近づいて来た。
 上からじろりと眺め下ろし、
「こいつは八丁堀だな。確かに面倒な男を連れ込んだもんだ。どうすんだい」
「殺す」
 頭は躊躇わずに答えた。
 ひっ、とおきみが息を呑む。
「町方をやるのは気が進まねぇと考えちゃみたが、他に道はねぇ。明日にでも連れ出して始末をつける」
「ふーん」
 栄次はたいして驚いた様子もなく、囲炉裏の火を遮らぬようにしゃがみ、ぐいと宗三郎の襟を掴んで顔を明かりに向けさせた。
「なんだ、てめぇ、知り合いか」
 栄次の様子に不審を感じた仲間が噛みつくように言う。新入りのくせに我が物に振る舞うのが気に入らないのだろう。
「若ぇな」
 手荒な扱いに唸り声をあげる宗三郎の顔をまじまじと覗き込んで言う。
「なんて名だ」
 宗三郎は答えなかった。上体を捩じられた無理な姿勢のせいで殴られた体が痛かった。 また名乗ったとして事態が好転するとは思えなかったし、言うことを聞くのは業腹でもあった。
「てめぇ」
 突然、別の男が背中を蹴りつけた。
 その拍子に栄次の手が外れ、頭が勢いよく板の間に打ちつけられる。
「ぐっ」
 一瞬くらりとするほどの衝撃だった。
 そのため、次に続くやり取りはほとんど聞き逃してしまうことになった。
「頭、俺にこいつをくれねぇか」
「なに。やっぱり知り合いか」
「いや、知らねぇ。だが、気に入ったのよ。他の奴らがいらねえってんなら。もらってもいいだろう」
「気に入っただと? 命乞いか? いくらお前の頼みでも、そいつは聞けねぇ。仕事の障りになるような奴は殺すしかねぇんだ」
 頭の物言いには物騒な響きがあり、室内の雰囲気は険悪になるかと思えた。
 だが、それに気づかぬ様子で栄次はひらひらと手を振った。
「いや、殺すのはかまわねぇ。文句はねぇよ。くれといったのは一晩て意味さ。他の奴らは女を楽しむ。俺はこいつをもらう。いいだろう」
「一晩……」
 頭は驚いたように黙り込んだ。だが、栄次の望みを理解すると、苦笑いを浮かべる。
「なるほど、それならかまわねぇ……。だが、変わってるな、お前」
 栄次は答えず、にやりとしただけだった。
 手下共は半分わけがわからないような、どっちつかずの笑みを浮かべている。
 中には改めて宗三郎の顔を覗き込もうとする者もいたが、栄次はさりげなく立ってそれを遮った。
 邪魔をされた男は一瞬むっとした様子だったが、部屋の隅に縮こまった女たちに気づくと、思い直したらしい。
「お前らはこっちへ来い」と、ぐい、とおきみに手をかけた。
「いやーーーーっ」
 つんざくような悲鳴に、宗三郎はハッと顔を上げる。
 見ると、おきみと多世が数人がかりで座敷へと引きずり出されるところだった。
「やっ、やめろっ」
「いやっ、放して! 助けて、誰か!」
 おきみは精一杯に暴れたが、男たちはなんなく座敷に転がして押さえ込む。一方多世はされるがままに、薦(こも)を敷きつめた土間の方まで引きずられていく。
「よせっ」
「うるせぇっ」
 縛られたまま、必死に間に入ろうとする宗三郎は殴られ、足蹴にされた。倒れたところを踏みつけられる。
「おいおい、ほどほどにしといてくれよ」
 女を連れ出すのへは手を貸さず黙って見ていた栄次だが、荒くれ者たちの間から宗三郎を引きずり起こすと、「お前はこっちだ」と、元の納戸へと押し込もうとした。
「放せっ」
 宗三郎の抵抗をものともせず、突き飛ばすようにして板の間へ転がすと、栄次は自分も入って、板戸をぴしゃりと閉めた。
 部屋は一瞬で元通りの闇に閉ざされた。
『いやっ、佐垣様、佐垣様、助けて! 助けてぇ』
 おきみの悲痛な叫び声が続く。
 男たちの下品な笑い声がそれにかぶさった。
「ちくしょうっ」
懲りずに立ち上がろうとする宗三郎を、栄次は押し止めた。
「よせ、お前にゃ、どうすることもできねぇ」
「なんだとっ」
 暗の中で、宗三郎は見えない相手の顔を睨み付けた。
 宗三郎には、まだ、なぜ栄次が自分と一緒にここにいるのかよくわかっていなかった。泣き叫んでいる娘を助けることで頭は一杯だったのだ。
『いやっいやーー……』
 佐垣の名を連呼していたおきみの声がくぐもったものになった。
 相手に頭突きを食らわしてでも、と切羽詰まった宗三郎が身構えた途端、
『あっ、こいつ!』と、誰かが大声をあげた。
 にわか、隣室が、今までとは違った意味で騒然としだした。
『このアマ!』
『ちくしょう、なんてことしやがる!』
 男たちの怒号とばたばたと動き回る気配。
 続けて、『多世様ー!』というおきみの悲鳴。
「くそっ、どけっ」
 宗三郎が矢も楯もたまらず、戸に体当たりしようとすると、さすがにただならぬ雰囲気を感じたのか、栄次は横から板戸を引き開けてやった。
 勢いあまって転げ出た宗三郎が見たものは、男の手からぶら下がっている、ぐったりとした多世の姿だった。
 髷はほとんど崩れ、乱れ髪の間から、ぶらりと仰け反った白い顔が逆さまにこちらを向いていた。
 宗三郎には一瞬、その顔を赤く汚しているものがなんなのか、わからなかった。
「どうした」
 横に立つ栄次が男たちに聞く。
「舌を、噛み切りやがった」
 舌を――。
 宗三郎は呆然とその言葉を聞いた。
 多世の唇から溢れた血の筋が、二度と開かぬ瞼の方へと流れていく。
「アーーーーーーーッ」
 突然、おきみが絶叫した。常人とは思われぬその大きさに、居合わせた男たちは皆、一瞬、ぎょっとしたように動きをとめた。

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