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-2- 午後七時少し過ぎ。ジーンズに紺のTシャツ、その上に薄手の生成りのパーカーをはおった駆は、乗ってきた自転車を校門の横にたてかけた。 すでに日は落ちているが、まだ辺りは真っ暗というわけではない。 目の前には人っ子一人いない校庭。左手に現生徒会室や教室のある鉄筋の新校舎が二棟。グランドをはさんで右手に、部室や特別教室のある木造校舎。 駆は四階端の部屋をきっと見上げた。 ここからではよく見えないし、一見明かりもついていないように見えるが、オカルト研究会の部員たちはあそこに集まっているはずである。 「何たくらんでるのか知らないが、絶対ぶっつぶしてやる!」 駆はいさましく片手を振り上げた。 佐上に指摘された通り、駆は部室の外で二人の会話を立ち聞きしていたのである。ただしすぐに水原に見つかってしまったので、聞いていたのは最後の佐上のセリフ、「午後七時に部室に集合」という部分だけ。 それでも校内に人気がなくなった頃を見計らって集まる、というのはただごとではない。絶対に何か良からぬことをくわだてているのに違いない。 ただし、具体的に彼らが何をたくらんでいるのかを考えないところが駆である。たとえばもし犯罪現場に踏み込んでしまったら自分の身だって危ないだろうに、そういう方向に頭が働かないのが十六歳の中和駆のオツムなんである。 ちなみにこれまでその足りない脳みそを必死でフォローしてきた兵三と恵は、オカルト研究会の方から本日の予定は聞いてはいたものの、そこに駆がいあわせようとは夢にも思っていなかった。 駆がたいして高くもないゲートをよじよじと上り、足をひっかけて転びそうになりながら何とか中へと下りる頃、もう一人の人物が「遅刻だ、遅刻だ」とつぶやきながら、校門に近づいてきた。 こちらに気づかず旧校舎へ走っていく駆の後ろ姿を捉えると、その人物は「げっ」と声を出した。 あわてて制服のポケットから携帯電話を取りだし、短縮ボタンを押す。 『どうした、遅いぞ。今どこだ』 ワンコールも待たずに相手が出た。 「今、校門なんですけどね。それよか大変ですよ」 水原は不必要に声をひそめてささやく。 「中和駆がそっちに行きましたよ」 『ああ? 駆? 何やってんだ、あいつ……やっぱり話を聞いてたな』 「たぶん……きっと部室に向かいますよ」 水原の耳にチッという舌打ちの音が聞こえた。 『しかたない。面倒を起こされる前に帰そう』 「言うこと聞きますかね……ああっ」 『聞かなかったら今日は中止――なんだ、水原?』 白いパーカーが校舎の中に消えるのを見守っていた水原はすっとんきょうな声をあげた。 「部長、まずいかも。彼、東階段から上がる気ですよ」 『まさか。そりゃ校門からだとそっちの方が近いが、おれたちの話を聞いてたならそりゃないだろ。あいつが怖がりなのは有名だぜ――』 「肝心なところをちゃんと聞いてたかどうか、あやしいもんだと思いますね。そもそもうちらが何の為に集まってるのかも知らないのかも」 電話の相手が黙りこむ。 だが沈黙はほんの数秒で、小さなため息が水原の耳に届いた。 『しかたない、金城たちに様子を見に行かせよう』 そこで後輩たちに指示を出す声と、部室の扉の開く音がする。一年生たちが出ていったのだろう。 『それじゃお前は、悪いけどあいつの妹に連絡しといてくれ。あとでうらまれたくないからな』 「了解――あ、部長」 そのまま会話を切り上げようとした佐上を水原はあわててさえぎった。 「おれ、家で七年前の部活ノートを調べてたんですよ、それで遅れちゃったんですけどね」 『何かわかったのか?』 「ええ、実はあそこの踊り場には――」 階段に足をかけたとたんきいっと板がきしみ、駆は顔をしかめた。くつ下一枚の足の裏が何だかたよりない。 下駄箱は新校舎側にあるので、上履きに履き替えることはできなかった。といって土足というのもなんとなく抵抗があり、駆は脱いだスニーカーを昇降口の隅に置いた。 オカ研の連中は、靴、どうしたんだろう。たぶん前もって上履きなんかはちゃんと用意してあるんだろうな。 つまらないことを考えるのは、気をまぎらわすためだ。 非常灯のせいで旧校舎内は真っ暗ではなかったが、それでも階段の横に長く続く廊下は薄暗くて気味が悪い。駆はなるべくそちらを見ないようにしながら、懐中電灯を持ってくればよかった、と後悔した。 すでにこんな時間に人気のない校舎に足を踏み入れたことさえ、十分後悔していた。 陽光の届かない天井の隅や使われていない教室などには、何かがひそんでいそうで、駆は昼間でも用がなければ滅多にこちらには渡ってこない。 長い歴史で磨り減った階段は、丹念にかけられたワックスのせいでつるつると滑り、くつ下では歩きにくいため、駆は太い手すりに手をかけて、慎重に上っていった。 その手すりも、ひんやりと冷たい。金属の冷たさではなく、木製のどこか有機的な手触りに、触らなければよかったと思ったが、心細さのあまり、いったんすがってしまったものはもう離せなかった。 きしっ、きしっ。 一段一段、踏み出すたびに嫌な音がする。 駆は開いた右手できゅっとパーカーの襟元を握りしめた。なんだか、寒い。 そう思ったとき、ふうっと耳もとの柔らかな髪がそよいで、駆はびくりと背後を振りかえった。 どこか、窓でも開いているのだろうか。昇降口の扉は閉めてきたと思ったけど。 出口のことを考えたとたん、ふいに、帰ろうか、という思いが強くなった。 自分がここに来たのは誰も知らないはず。恐怖に尻尾を巻いて逃げ出したと揶揄する人間は誰もいないはずなのだ。 だが、手すりに手をかけたまま体をねじって、眼下の暗い階段を見下ろすと、その気もなえた。もう二階まで来てしまっている。またここを下りて、人っ子一人いない校庭を校門までもどり、さらに夜道を自転車で十五分は戻らなくてはいけない。 そう思うと、このまま上がってしまった方が早いような気がした。少なくとも四階のオカルト研究会の部室には人がいるはずなのだから。 オカ研。 ふと脳裏に憎らしい男の顔が浮かび、駆は誰もいないのに一人唇をとがらせた。 佐上とは同じ学年だがクラスは一緒になったことはない。ただ、廊下や食堂でよく目が合うし、なんとなく印象的な雰囲気をもっていたので一年の最初から顔は知っていた。 ああ見えて運動神経も悪くないのにオカルト研究会なんかに入部した変人、そういう肩書きと同時に彼の名前を教えられたのはいつだったろうか。気づけば気まぐれのように時々成績優秀者の貼り出しリストに名を連ねている。理系については兵三をはるか引き離すことさえあって、駆は勝手にもの静かな優等生タイプなんだと思いこんでいた。 それが自分が生徒会会計に、相手が研究会の部長に就任してから、言葉を交わす機会はぐっと増えた。二学期の部費と文化祭の予算関係で、もうこの時期から各クラブ代表とはちょくちょく会議を開く機会があるのだが、その席での佐上は駆にとって天敵のような存在だった。 「確かにおれは手際が悪いよ」 腹立ちの種を思い出したせいで、駆はさっきまでの恐怖も忘れ、ぶつぶつとつぶやきながら階段を上がっていった。 各部から上がってきている申請書の見落としがあったり、収支の合計が合わなかったり、自分でも情けないとは思うのだが、たいがいの人間が仕方ないと笑って見逃してくれるところを、あの男はこれ見よがしにため息をついたり首を振ったりする。 おまけに最終決定権は生徒会側にあるというのに、佐上は自分の主張を絶対に引っ込めないし、ほとんどの会議は駆がヒステリーを起こして終わった。 いつもは自分をかばってくれる兵三も恵も、こと佐上に関する限り傍観を決め込んでいるのも頭にくる。 会議のときはあれだけ冷たい言葉でこちらの嘆願――駆の口調ではとてもお願いしているようには聞こえないだろうが――をはねつける男が、ふと気づくと、何が楽しいんだが、にこにこと廊下の向こうからこちらを眺めているのもわけがわからなくて苛々する。 ああもう、なんだって言うんだよっ。 やっぱりあいつに一矢も報いずして帰るわけにはいかない、と、大げさに足音をたてて踊り場まで上がってきた駆は、そのまま三階へ向かおうと体の向きを変えてぎょっとした。 今の今まで心の中でざんざんののしっていた相手が階段の途中に立っていたからだ。 「佐上……」 ばかみたいにぽかんと開けた口を、駆はあわてて閉じた。 しまった、見つからないように部室に行こうと思っていたのに。 けれど、見つかってしまったからにはしかたない。駆は開き直った。 「佐上、お前、いったい、こんな時間に何やってんだよっ」 それを言うなら自分こそ私服でこんなところで何をやっているのか、さすがの駆も口に出したとたん、まずいと気づいたが、相手は特に言い返そうともせず、黙ってこちらを見下ろしている。 駆が一度だけおしゃれだな、と感じたことのある縁なしレンズの向こうの瞳は、いつものからかうような光もなく、ガラス玉のように無表情だった。 なんとなく、ぞくっとして、駆は思わず一歩退いて、とん、と後ろの誰かにつきあたった。 「あ……」 無意識に振り向いて相手の顔を確かめる。 「あれ……」 ぼんやりと、その闇の中で妙にさえざえと白い相手の顔を見上げ、再び首を前にもどす。 双方から呼ばれた子犬のようにきょときょとと前後を見比べた駆の顔から、一気に血の気が引いた。 本人に読まれることなく焼却処分されたラブレターの中で、かつてサクランボのようだと賞賛された、ふっくらとしたピンクの唇が大きく開き、駆は声にならない悲鳴をあげた。 「いないって? 確かか?」 近藤と金城の報告を受けて、佐上は眉をひそめた。 「本当ですって。おれたち今、東階段上がってきたんですもん」 「でも、昇降口のとこにスニーカーがあったんで、校舎内にはいると思うんですけどねぇ」 どっかの教室に隠れてんじゃないですか、という後輩の意見に、あの怖がり屋がそんなことをするとは思えなかったが、それでも佐上は校舎内を捜すよう、二人に指示を下した。 「念のために西階段の方も調べてくれ」 ラジャー、と言いつつ、二人が飛び出していく。オカルト研究会に入部するような輩であるから、当然夜の校舎など屁とも思っていない。 二人の足音が遠ざかるのを聞きながら、佐上はふう、とため息をついた。 天井の照明は切れているが、どこから発掘してきたのか、部室の隅にはアンティークなフロアスタンドが灯っていて、多少薄暗くともとりあえず視界には困らない。 携帯のボタンを親指でなぞりながら、佐上は外で待機しているはずの水原に連絡をとろうかどうか迷った。 ――まったく、あのおてんばめ! そのときだった。 ふいに駆の悲鳴が聞こえたような気がして、佐上は開いた扉から見える東階段の方を鋭く見やった。 「いやーっ、いやーっ」 駆は、まったくそっくりな二人の佐上に追いつめられて、踊り場の壁を背にうずくまっていた。 腰を抜かして座りこんでしまった彼を上からのぞきこむようにして、二つの影がゆらりと立っている。 駆は両手で頭を抱え込むと、ぎゅっと瞳を閉じた。 手におえない現実に直面した子供と一緒である。 ――これは夢だ、これは嘘。見なければ消える、見なければ消える! がくがくと震えながら、心の中で念じる。 辺りはしんと静まりかえり、いつまでたっても体に触れてくる気配がないので、駆はおそるおそる目を開いた。 ――もう、消えたかな。 だが涙でぼやけた視界には、無情にも制服のズボンに包まれた四本の脚が映った。 「やだーーーっ」 あわててまた顔を伏せる。恐ろしくて絶対上なんか見られない。そこにあの不気味な顔が二つ並んでいたら……! 「駆!」 叫び声がして、駆ははっと顔を上げた。 紺色の四本の脚の向こうに、階段をかけおりてくる男の姿が見えた。 「ぎゃーっ、また出たーっ」 その言いぐさにむっとしたように顔をしかめたが、三人目の佐上は気をとりなおしたように先の二人の影を押しのけると、駆の腕をつかんだ。 「ぎゃーーーっ」 なぜか触られることはないと思っていたので、駆はぎょっとしてその手を振り払おうとした。 「触んな、ばか佐上ーーー!」 「こら、暴れるなって、いてっ、おれは本物だって!」 佐上はなんとかなだめようとするが、恐慌状態におちいった駆は、必死に両手両足を振りまわす。顔を引っかかれ、すねを蹴られて、さすがの佐上も業を煮やしたらしく、ぐいっと駆の左手を背中でねじり上げると、後ろ髪をつかんで、乱暴に自分の胸に押し当てた。 がんっと、顔面に痛みが走り(鼻つぶれるっ)、それでも抵抗しようとした駆は、ふいに鼻先をかすめた匂いに、一瞬動きを止めた。 ――この、匂い……。 顔におしつけられた制服に確かにしみついた、煙草の匂い。 昼間、部室で確かにかいだ、鼻をつく、この―― 「うわーん、さがみぃ!」 駆は空いていた右手で相手にしがみついた。 突然抱きつかれて驚いたが、すぐに佐上は拘束していた相手の手を解いてやった。 茶色の猫っ毛をくしゃくしゃとかきまわす。 「お? わかったのか、よしよし、いい子だ」 「佐上ぃ、助けてくれよぉ!」 「よしよし、任せておけ」 気安く請け負ったものの、佐上自身にもどうしたらいいのか、具体的な策などない。 自分たちがもめているうちに、いったん離れていたニセ佐上一号、二号はまた二人を囲むように目の前に近づいてきている。 だがこの分なら駆を連れて強行突破できるかもしれない。そう考えていた佐上は、さらに階段の上と下から現れた影を目にして顔をしかめた。 「駆、絶対見るなよ」 「言われなくたって見ないよっ」 駆は半泣き状態で、子供のようにぎゅっと佐上の胸に顔をうずめた。 ――なんで、おればっかなのよ……。 ゆらゆらと現れた佐上三号、四号相手にため息をつく。 「駆なら、何人だろうとまとめて面倒見てやるのに……」 つぶやきながら、片手で駆の頭を抱えたまま、踊り場の壁を背にしていた佐上は、何気なく背後の板壁にはわせていた手を止めた。 さきほどの水原の話を思い出す。 オカルト研究会のノートによると、七年前にもここで似たような現象が起こったのだという。当時はこの踊り場には大きな鏡が据え付けられていたということで、その鏡をはずしてしまうと、怪異はぴたりと止まったという。 もちろん、現在はここに鏡などありはしないが……。 「駆、目を閉じてろよ」 佐上はそうささやくと、自らも静かにまぶたを閉じた。 体の一部で、柔らかな髪の手触りと、腕の中の甘い匂いを楽しみながら、残りの神経を背後の壁に集中する。 あるはずの、鏡。 あるはずのない、鏡。 静かに板壁をたどっていた指先が、冷たい表面に触れた。けっして木などではない、無機質のガラス。 ――よしっ。 佐上はぱっと目を開けると、こぶしを握った腕を前に振り上げ、勢いをつけて思いきり背後の壁に打ち下ろした。 ガシャーーーーーン! 突然の破壊音に、駆の体がびくりとふるえた。 佐上は目の前で粉々に崩れていく四体の影をにらみつけながら、駆が見ないで良かった、とつくづく思った。自分そっくりの顔にひびか入ってばらばらに割れていくさまは、佐上だって気持ちいいものではない。 「よし、行くぞ」 佐上はそう言って駆をうながそうとしたが、相手は相変わらず目をぎゅっとつぶったまま、自分にかじりついて離れようとしない。また、彼の足元がくつ下一枚であることに気づくと、佐上はさっとしゃがみこみ、細い腰とひざの裏に手を回して、荷物のように肩の上に抱き上げた。 「さ、佐上っ!?」 あわてて上半身を起こそうとした駆の尻をぱん、と叩き、目を閉じてないと怖いぞ、とおどかす。 その効果はてきめんで、たちまち駆はおとなしくなると、ぎゅっと相手のブレザーを握りしめた。 佐上はそのまま階段を上がって部室に向かった。 肩の上の体をぶつけないように気をつけて鴨居をくぐると、部室は無人だった。 部員たちはまだ校舎内を探しまわっているのか。あれだけ大きな音をたてたのに、かけつけてくる気配はなかった……。 佐上はかついでいた駆を、革のソファにどさりと落とした。 そして窓際に近づくと、カーテンを一枚だけ開けて、携帯を取り出す。無言でボタンを操作していると、「佐上?」という心細そうな声がした。 ピ、という音とともに操作を完了すると、佐上はソファのところまで戻った。 なんと駆はまだ律儀に目をつぶったまま、近づいてきた佐上の気配に不安そうに顔を上げる。 だがソファのすぐ隣に腰を下ろすと、ちょっと身を寄せるようにして、クン、と鼻をうごめかせ、やがて納得したように力を抜いた。 「何やってたの?」 「ああ、携帯を……」 「携帯? 貸して!」 はじかれたように言われて、佐上は思いつきで「つながらなかった」と返事した。もちろん嘘である。 そう、とうなだれるさまは、かわいそうで、かわいい。 自分にそんな趣味はないはずなのに、こと中和駆に関するかぎり、「かわいそう」と「かわいい」は同義語である。 顔を真っ赤にして怒っているさまも十分観賞に堪えるが、困ってうつむいたり、泣きそうになったりしているのを見ると、なぜかもっといじめたくなってしまう。もちろん、他の人間にいじめられたりしているのを見るのは我慢できないが。 埃で薄汚れたくつ下や、もつれた髪、頬に残る涙の跡なんかを見ていると、自分でもまずいなぁ、という衝動がわいてくるのである。 「もう目を開けてもいい?」 ――いいに決まってるじゃん。 そう答える代わりに、佐上は「だめ」と冷たく却下した。 「おれはこういうの慣れてるから平気だけど、駆はどうかな。失神するかもな」 実際に十センチほどソファから飛びあがり、駆はぎゅっと佐上にしがみついてきた。 「ま、まだいるの?」 「いるというか、いないというか……」 鏡は割ってしまったのだから多分もう現れないとは思うけどね、と佐上は心の中でつぶやいた。目を閉じているので人の悪そうなにやにや笑いは駆には見えない。 「いつまでここにいないとだめなの?」 いごこち悪そうに体をもじもじさせながら駆がたずねてきた。 「そのうち水原たちが捜しに来てくれるだろうから、それまでかな。人数がそろえばこっちも安全だし……」 だが、あとしばらくは二人きりだ。さきほど水原の携帯にメールを送っておいたのである。 《ブジ確保。全員下で待機せよ》 佐上は黙って、びくびく、おどおどしている小さな顔を見下ろした。 この状況じゃたいしたことはできないだろうな。おれも鬼じゃないし。 そのとき、部室の隅で、ゴウン、と大きな低い音がした。 「ぎゃっ、なに?」 それが年代物の冷蔵庫の作動音であることはわかっていたが、佐上は「おやおや、これはこれは……」と意味深な言葉を吐いた。 とたん、駆の閉じた目から再び涙がどっとあふれだす。 「いやだー、なに〜〜?」 「聞きたい?」 「聞きたくない〜〜」 駆はふるふると首を振った。 タイミングをはかったように、ぴしゃり、と水のはねる音。あれはたぶん、近藤が持ちこんだ水槽だ。生物部からあずかってくれと頼まれたフナかなんかが入っていたはず。 だが駆は声も出せずにふるえている。 「おれ、ちょっと……」 佐上がソファを立とうとすると、駆は驚いたようにしがみついてきた。 「どこ行くんだよ!」 「遅いから、水原たちの様子を見てくる」 「おれを置いていくなよ〜〜」 手を離しては大変とばかり、佐上のブレザーにしわが寄るくらい、固く握りしめている。 「でもなぁ、こうしていても……」 良心の呵責というものは一グラムも感じずに佐上がしらっと嘘をつくと、駆は涙でぐしゃぐしゃになった顔を必死で向けてきた。 「行かないで、行かないで、お願い!」 「じゃあ……」 佐上は元どおりソファに腰を下ろすと、手を伸ばして乱れた前髪を後ろになでつけてやった。 フロアスタンドの弱いオレンジ色の明かりの中、白い額がうっすらと汗をにじませている。 「お願い聞いてくれる?」 「お願い?」 「うん、一つでいいから」 駆は少しびっくりしたようだったが、小さな声で「部費?」と聞いてきた。 思わず苦笑してしまう。 「まあ、部費もそうだけど、それはとりあえずいいや。別のことだよ」 「なに?」 「口開けて」 「くち?」泣きぬれた顔が、きょとんと聞いてくる。 「そう、口。開けて」 駆は意表をつかれたのか、目を閉じたまま、おとなしくぱかっと口を開けた。 「舌出して」 何を言われたのかわからない、というように固まってしまった相手に、佐上はソファを離れるふりをする。「嫌ならいいけど」 「あ、あっ」 駆はあわてて子供のように、べっ、と思いきり舌を突き出した。 佐上はにっこり微笑むと、ゆっくりと眼鏡をはずしてブレザーのポケットにしまった。 「まら(まだ)?」 「まだ」 妹と同じ作りながら、よっぽど可憐な小さな顔が、いけにえの子羊のように仰向いている。 佐上はそっと頭を下ろすと、自分の舌で、その赤い舌先に触れた。 「うぇっ?」 とたんにびくりと身が引かれる。 「なんかっ、なんか触ったっ」 「なんか、っておれだよ。いいからおとなしくしてなさい」 「何やってんだよー、佐上!」 「いいから、言うこときかないと、一人で外に放り出すよ」 駆は魔法の呪文を唱えられたように体を硬直させた。 命じられるままにもう一度おずおずと出された舌を、今度は歯ではさんで外へ引きずりだす。おびえて引っ込もうとするぬるぬるしたそれを何度もやさしく噛んでやった。 「う、うんっ……」 鼻にかかったような声が佐上を煽る。 自分の舌でざらざらした表面を何度もなぞって愛撫していると、駆の口の端から唾液があふれてきた。 それを舐め上げるようにしながら、ぐい、と口腔内へ舌先を差し入れた。 とっさに駆の口が閉じ、噛まれかけた佐上は顔をしかめる。お仕置きのように右手でおとがいをぐっと掴むと、口の中で小さな悲鳴が上がった。 逃げまどう舌を追いかけ、からめ、つるつるした小さな歯を一つ一つたどる。 こんなところまで華奢な作りなんだなぁ、と思うと、佐上は小さな感動を覚えた。 相手が息苦しそうに顔をそむけるのも許さず、唇どころか頬やら伏せたまつ毛やらさんざ舐めまわしていると、ブレザーの胸元に振動を感じた。 キスを続けながら物慣れた手つきで携帯を操作し、横目でバックライトの液晶画面を確認すると、水原からのメールだった。 《副会長到着》 中和恵、か。 頼りになる協力者でありながら、もっとも手ごわい相手。彼女の機嫌はなるべく損ねたくない。 まだ未練を残しながらようやく唇を離した佐上は、駆の顔を見て思わず噴き出しそうになった。 八の字眉に、への字口。思いきりしかめられ、涙と二人分の唾液でべたべたになった顔は、おせじにも色っぽいとは言えなかった。 口腔内をねぶられれば、子供でも快感を感じるはずだが、駆にとっては気持ちいいのと悪いのは紙一重らしい。いかにも一方的に蹂躙されました、と言いたげな半泣きの顔。 自分が夢中になっている間、こいつはこんな顔をしていたのかと思うと、佐上は腹を立てるよりもいっそおかしさを覚えた。 ――先は長そうだなぁ。 ため息をついて立ちあがり、戸棚からタオルを出してくると、小さい子にするように、乱暴に顔をぬぐってやる。 「もう目を開けてもいいぞ」 佐上がそう声をかけるのと、階段をかけあがってくる複数の足音が聞こえるのは、ほぼ同時だった。 「でも実際鏡はずっと前に撤去されてたんでしょ。この破片はどっから来たのかしら」 東階段の踊り場一面に、銀色の破片が散らばっている。 しゃがみこんでその一つをつまみあげると、簡素なノースリーブのワンピースにカーディガン姿の恵は首をひねった。 「さあ、旧校舎で起こることに理屈なんかつけられないさ」 佐上は手すりにもたれたまま肩をすくめた。 一年生部員たちは、水原の指示を受けて、現場の様子を写真にとったり、メモをとったりしていた。あとで水原がデータベースに入力するのだろう。 こうした事件の詳細な記録が、またのちの部活動に役に立っていくのだ。 「そうね、ま、そのために代々のオカ研があるわけだし」 佐上は顔をしかめた。 嫌がるのを知っているくせにわざと自分の前でその呼び名を使うところに、恵のひそかな怒りを感じる。 具体的に何があったかはわかりようがないのに、うつむいたまま露骨に佐上を避ける駆の態度を見れば、「何かあったんです!」と全身で叫んでいるのも同じだった。 「とりあえず、ここはうちが片付けておきますから、副会長たちはもう帰られたら?」 にこにこ顔の水原が横からとりなすように言う。恵のファンである彼は、私服姿の彼女を見られて嬉しいのだ。 「じゃ、お言葉に甘えてそうさせてもらうわ」 意外に素直に立ち上がった恵は、「報酬のことはまた後日、兵ちゃんからね」とささやいた。 佐上が黙ってうなずく。 それじゃ、と駆を連れて昇降口へ向かう恵の後ろ姿へ、佐上は「送らなくて大丈夫か」とたずねた。 「平気。二人とも自転車だし。こっちには頼もしいお兄さまがいるし」 嫌みたっぷりの口調に、駆がびくびくと体をふるわせている。まるで尻尾を腹に巻いてうなだれた子犬だ。今夜はさぞやたっぷり油をしぼられるに違いない。 あれだけの体験をしたあとなのに気の毒に、と、これは佐上の本心だった。 それでも昇降口まで見送りに下り、駆がもたもたとスニーカーを履いているのを見守りながら、佐上は恵が今まで土足だったことに気づいた。 視線で彼がそれに気づいたことを知っても、彼女はまるで平気な顔をしていた。 「じゃな、駆」 声をかけると、駆はちらっとこちらを見上げ、「うん、またあした」と答えた。 返事があるとは思っていなかったので、内心の驚きを隠してにっこりとほほえむ。 恵はそんな二人の様子を疑わしそうに見ていたが、やがてさっさと先に立って昇降口を出た。 月の位置はすっかり高くなり、その光に照らされた校庭を学院きっての美人と評判の双子がよりそうように歩いていく。実際には駆の方が少しは背が高いのだろうが、この距離からだと二人の背格好は同じくらいに見えた。 「駆、そんなに口こするのやめなさい、赤くなるでしょ!」 遠くから恵の叱責が聞こえてくる。 「おやおや、お姫さまは唇をどうしたんでしょうか」 いつのまにやら、すぐそばに立っていた水原が、さもおかしそうに言う。 佐上は人差し指で眼鏡を押し上げると、フン、と鼻を鳴らした。 「さあな、なんかまずいものでも食ったんだろ」 【Fin.】
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