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スピッツとその主人
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「タカシ、タカシ……ねぇどこ?」
 女生徒は、手すりに手をかけたまま、うす暗い階段の踊り場で不安そうに周囲を見まわした。さきほどまでうるさいくらいに聞こえていたグラウンドの喧騒もなぜかぴたりと止み、辺りはシンと静まり返っている。
「タカシ、タカシ、ねぇ」
 昭和初期に建てられたという曙光学院の木造校舎は、不必要なほど天井が高く、頼りなげな少女の声は、黒ずんでなめらかな板壁に吸いとられてしまった。
 はるかな頭上に一つきりついた蛍光灯が、ちかちかとまたたいた。
 思わず顔を上げた女生徒の目に、三階から降りてくる紺色のズボンが目に入った。
「タカシ……?」
 ゆっくりと目を上げていくと、制服のブレザーの胸ポケットから、見覚えのあるキャラクターのストラップが覗いている。
「タカシ……」
 女生徒は、安堵のあまりくしゃっと顔をゆがめた。
「ミドリ」
 ふいに、背後からなじみのある声がした。
 振り向いて二階の廊下を見下ろすと、学生かばんを下げた恋人が片手を上げている。
「タカシ!」
 思わず階段をかけおりかけ、はっとしたように頭上を振り仰いだ。
 目に入ったのは、意外なほど近くにある男の制服。
 その胸ポケットには、二階にいる恋人に自分がプレゼントしたはずのネコのストラップ。そして、その上の無表情な顔は……。
「いやっ」
 女生徒はふるふると首を振った。
「ミドリ」
 階段を上がってくる音は聞こえなかったのに、すぐ近くで声がした。
「ミドリ」
 頭上の男も、まったく同じ抑揚で自分の名を呼んだ。
 女生徒は声にならない悲鳴をあげ、頭上の蛍光灯がぱちっと火花を散らすようにして、消えた。



「もう、情けないったら情けないっ!」
 昼休み、新校舎最上階の生徒会室で、高校二年生の中和駆(なかわかける)は顔を真っ赤にして怒鳴りちらしていた。
「駆、声でかいよ」
「うるさいっ! しゃあしゃあと部費20パーセント増しなんて要求されてよく平気だねっ、兵三、なめられてんだよ、わかんないのっ」
 駆に一方的に責められっぱなしの生徒会長は、甘くハンサムな顔を困ったようにしかめた。
「だから、それは単なるアッチの希望だろう? 別に本当に20パーセント増すわけじゃないよ。これから調整を重ねていくわけだからさ、向こうもその分サバ読んでるの。せいぜいが5パーセントか7パーセントってとこだろ、最終的には」
「ばかっ。結局言いなりになってんじゃないかっ」
 だん、と机をたたかれて、岡村兵三(おかむらへいぞう)は大きな体を縮こまらせた。名前はじじむさいが、よく陽にやけた長身にこぼれる白い歯は清潔感あふれ、生徒にも教師にも人気が高い。生徒会長に就任したのと引き換えにテニス部副部長の地位は下りたが、それでも彼がコートに立てば女生徒たちが黄色い声援を上げる。文武両道で、バレンタインには校門に他学校の生徒たちも列をなすというのに、彼はどうもこの自分よりもうんと小柄な幼なじみを苦手としていた。
 女の子みたいな繊細そうな容姿も、それを裏切る強気で攻撃的な性格も、幼稚園時代からまったく変わらない。わがままいっぱいに兵三をふりまわし、面倒にまきこんでは尻拭いをさせる。本人はまったく気づいていないのだから始末に悪い。
 学年で一、二を争う頭脳を平気で馬鹿呼ばわりされて、それでも相手が駆かと思うと、兵三はたいして腹も立たなかった。今も耳のそばでぎゃんぎゃんわめいているが、そこにはどうしても小型の座敷犬が精いっぱい威嚇しているようなかわいらしさがともなう。もちろんそんなことを口に出せばただでは済まないが、神妙に聞いているふりをしながらも罵声は右から左へと聞き流す。十年以上の駆との付き合いで兵三が身につけた技だった。
「オカ研なんてっ。オタクの集まりのくせして、何様のつもりなんだろっ」
 駆は薔薇色の頬をさらに上気させ、天然のやわらかな茶色いくせっ毛を振り乱して、じだんだを踏みかねない勢いだ。
 そんなに怒らなくてもいいのに……と思いつつ、なぜ駆がそれだけむきになるかがわかっているだけに、周囲はへたな反論もできなかった。
 が、生徒会には唯一、駆のたづなを引くことのできる人物がいる。
「駆、うるさい。スピッツみたい」
 初夏の陽射しに照らされた、明るい生徒会室の中が、一瞬、シン、と静まりかえる。
 ――そんな、正直なことを……。
 その場にい合わせた誰もがそう思ったが、もちろん口に出す人間はいなかった。
「恵ッ!」
 駆は声の主のほうをきっと睨みつけた。
 だが兵三以上に駆のヒステリーに慣れている相手は平気な顔で事務処理を続けながら言った。
「だいたいオカ研なんて言うと怒られるよ。あそこの部長、その呼び方きらいでしょ」
「いいのっ。オカルト研究会なんてオカ研でじゅうぶんなの……っ」
 駆はどなり返したが、こちらを見ようともしない相手の冷静な白い横顔に、毒気を抜かれたようにそれ以上の言葉をのみこんだ。
 中和恵(なかわめぐみ)。駆や兵三と同じ曙光学院二年生。駆の双子の妹である。
 二卵性とはいえ兄妹なだけにさすがに基本的な顔の作りはよく似ていたが、性格、雰囲気はまるで違う。駆の猫っ毛とは違うまっすぐで真っ黒な髪を、きりりとポニーテールでまとめた恵は、武道をやっているせいか、常に姿勢よく、制服の白いブラウスの襟元からのぞくほっそりと長い首筋は、凛とした清廉な空気をまとっている。
 強気で攻撃的な兄と同じ血はきちんと引いているが、駆と違って滅多やたらにそれを爆発させたりはしない。彼女の逆鱗に触れたらどうなるのか、本当のところを知っているのはこの学院では今のところ駆と兵三ぐらいだろう。
 本人は猫をかぶっているつもりはないのだが、日本人形みたいな容姿のせいで、よく知らない人間にはおとなしげな美少女に見える。もちろん彼女の口が案外悪いことも性格がキツイことも、すでに学院中の生徒たちの知るところだったが。
 定期試験の順位でも中の中や中の下をさまよっている駆とは違って、常に一ケタをキープしている。
 性格は真面目でもどことなく軟派な雰囲気のただようハンサムな生徒会長と、美少女剣士のような副会長の一対は、長い学院の歴史の中でもビジュアル、才能共に最高のコンビだと評されていた。
 恵に無理やり引きずられて会計の地位についた駆は、自分がみそっかすのようで少しおもしろくない。
 もちろん駆がおまけ的な存在であるとは誰も考えていないのだが、男女問わず大量に送られてくるラブレターもプレゼントも本人のあずかり知らぬところで闇から闇へと葬られているので、駆には自分がもてるという意識はまるでない。そもそも遠慮がちな秋波なんかにはてんで気づかない鈍感な性格をしているし、「かわいい」などと言われようものならけっこう強烈なこぶしが飛んでくるのだから生半可な覚悟では手など出せない。
 それでも、という根性のある輩には、さらに超えねばならない人間ハードルがあった。そのハードルは一般には幼馴染の兵三と妹の恵と言われているのだが……。
「だいたい、兵ちゃんにあたったって何にもならないでしょ。会計なんだから、駆がなんとかしないと。それとも自分の口じゃ言えないの?」
「おいおい、恵」
 何を言い出すんだという兵三の制止は聞かなかったふりをして、恵は駆に向き直ると、にっこりと笑った。
「こわいんだもんね」
「だ、誰がだよ、あんな奴怖くねえよ!」
 駆がきっとまなじりを吊り上げる。
 駆にその気のある人間たちから見ればけっこう色っぽいが、そこは血のつながった兄妹であるから恵にはなんの効果もない。
「あら、だれがそんなこと言った? わたしはただ、オカルト研究会の部室に行くのがこわいんでしょう、って言いたかったのに」
 恵はそう言って窓の外の、校庭をはさんだ木造校舎の最上階を指差した。一番端っこの、ちょうど新校舎の生徒会室の向かい側にあるオカルト研究会の部室。今時の建築物には見られない、瀟洒な細長い板ガラスがいくつもはまった窓は、昼間だというのにぴっちりとカーテンが閉められている。
 駆たちが入学するずっと前だが、そこはかつて生徒会室だったらしい。
 そのせいか、そこは今でも影の生徒会室と呼ばれていた。そして駆はそこの部長が影の生徒会長と呼ばれていることも知っている。それも腹の立つ原因の一つだった。
 なーにが影の生徒会長だよ。そんなふうに呼ばせていい気になりやがって。
 実際はオカルト研究会の部長が自らそう呼ばせているわけではないし、またその二つ名の理由は何も部室の位置関係からくるものだけではなかったのだが、うとい駆は噂の裏の真実などまったく知らなかった。
「申請に文句があるなら本人に言ってくれば?」
 恵に挑発されて、駆はうっとつまる。
 ただでさえ薄暗くて妙な雰囲気のある木造校舎、その上オカルト研究会の部室には得体の知れないものがいっぱい転がっていて薄気味悪いことはなはだしい。
 それにここ数日、向こうの校舎に関する妙な噂があることは、さすがの駆も耳にしていた。
 行きたくない……。
 だがこの状況でそれを打ち明けるのは駆のプライドが許さない。
「わ、わかったよっ、本人にかけあってくるっ」
 駆はやけっぱちのようにそう叫ぶと、生徒会室のドアを乱暴に開けて飛び出していった。
 ふぅ。
 生徒会役員たちがいっせいにため息をもらす。
「恵、お前さあ、なんでたきつけるみたいなことすんだよ」
 珍しいな、と言いたげな兵三の視線を受けて、恵はポニーテールの髪をさっと後ろへ払った、
「今回の仕事のこともあるし、ちょっとあの男に貸し作っとこうと思ったのよ」
「へぇ……」
 兵三はその場ではそれ以上の質問はさしひかえた。彼がかなわないのは、何も中和家の双子の兄のほうだけではなかったから。

「やっぱり東階段の二階から三階への踊り場、あそこがくさいですね」
「ふーん、やっぱりか、今度の被害者は一年の女生徒だっけ?」
「ええ、一Bの佐々木緑です。本人はもう転校するって言ってるそうですけどね。かわいそうに、気絶して倒れているところを用務員に発見されたときは半狂乱になったって話ですから」
 東階段の踊り場ねぇ。オカルト研究会の二年生部長、佐上篤士(さがみあつし)はそうつぶやくと、片手で眼鏡を押し上げながら、だらしなくソファの上に寝そべった。
「あそこ、生徒会の方から立ち入り禁止にしてもらいます?」
「根本的な解決にはならないだろ。西階段より便利だから、どうしたって使う生徒は出てくるだろうし。それに生徒会からも早く何とかしろってうるさく言われてんだよ」
「あの副会長ですか」
 オカルト研究会――名は研究会でも同好会などではない、正式なクラブである――の副部長、水原は佐上の眉の間のしわを見とって、にやりと笑った。
「彼女、やり手ですよねぇ。美人だし。ま、この件を解決できれば報酬はもとよりきっと部費もアップされますしね。ノートパソコンが欲しいんですよ、機動性のあるやつ。部長、がんばりましょう」
 ああ、と答えた佐上は寝転んだまま水原のまとめた被害レポートをもう一度最初から検討し始めた。
「同じ顔が一度に何人も、か。似たような報告が確か前にもなかったか」
「そうでしたったけ」
 水原は物慣れた手つきでパソコンのキーボードをあやつり、何箇所かでパスワードを打ちこむと、データベースを呼び出した。
「ああ、これかな……」
「何かあったか?」
「正式な被害届は出てない、単なる噂の類なんですけどね、今月頭に同じ友人に二回会ったって主張してる生徒がいるみたいですよ。サッカー部のやつで、ハードな練習のあとだったんで本人も見間違えだったんだろうってとこに落ち着いたみたいですけど」
「場所は?」
 データを確認した水原は手をとめ、ディスプレイの向こうからゆっくりと顔をのぞかせた。
「……東階段です。何階かはわかりませんが」
 佐上と水原の目が合った。
「よし、おれはこれから佐々木緑の家をたずねて、もっと詳しい話を聞いてくる。午後の授業はさぼるから、そのへんのフォローは頼むな」
「おれはどうします?」
「他の部員に手伝わせて、過去の部活ノートを調べてくれ。東階段関連の記録をすべてリストアップしろ」
「げー、データベースに入ってるのはまだここ数年のですよ。あとはあの汚い字の手書きのノート……」
「だから、一年に手伝わせろって」
「へーい」
 水原はただでさえ垂れぎみの目じりを、さらに情けなさそうに下げた。
「それから一度おれたちで徹底的に踊り場を調べてみないとな……。早い方がいいだろう」
「今日ですか? 何時?」
「生徒が完全に帰ったあとの方がいいな。よし、午後七時だ。おれとお前と、あと一年の近藤と金城に声をかけとけ。制服で部室集合だ。用務員の方にも一応話を通しておけよ」
「了解。とすると、部活ノートもそれまでにいったん調べておかないとなぁ……」
 ぶつぶつとつぶやいていた水原は、ふいにすくっと立ちあがった。
 なんだ、というように佐上が顔を上げると、にやっと笑って片目をつぶる。
 そのまま、そっと足を忍ばせて部室の扉の前に近づくと、引き戸の取っ手に手をかけて、一気にがらりと引き開けた。
「うわっ」
 扉にもたれるようにしていた小さな影が、勢い余って部室の床にころころと転がった。
「おっと」
 年代ものだが総革張りのソファの上に体を起こした佐上は、レポートを放り出してにやりと笑った。
「これはこれは」
「部長、お姫さまですよ」
 その言葉にぱっと立ちあがった駆は、汚れてしまった制服のズボンを払いながら、「違う、恵じゃない!」とどなった。妹と間違えられたと思ったのである。
 水原はにこにこと笑ってそれには答えなかったが、後ろ手に部室のドアをぴしゃりと閉めた。
 その音に、駆は意味もなくびくりとする。
 意外に広い室内は、それでも半分が壊れた家具やわけのわからない機械やダンボールなどで埋まっていて、実質使われているのは佐上が腰掛けたソファと、パソコンが置かれたデスクくらいにしか見えない。真昼間だというのになんでカーテンを開けないのか、陽光をさえぎられたせいで薄暗い部室は、高い天井のせいもあって、初夏だというのに妙にひんやりとしていた。
「なんで……電気つけないの?」
 たよりな気な声が佐上の笑みをさそう。
 心細げに周囲を見まわす小柄な体は、見知らぬ場所で母親に置いていかれた迷子のようで、思わず手を伸ばしてなぐさめてやりたくなる。もちろん佐上はそういう殊勝な性格の持ち主ではないので、ストレイシープの可憐な風情をたっぷりと観賞させてもらった。
 部長が答えないので、さりげなくパソコンの前にまわってウィンドウの一つを閉じた水原が代わりに答えてやった。
「電球が切れちゃってるんですよ。ここ天井が高いですから取りかえるのが手間ですし、それにこっちの校舎のは特殊なやつで、買うとけっこう高いんです」
「雀の涙ほどの部費じゃ、切り詰めるところは切り詰めないとね」
 嫌みたっぷりの口調に、ここに来た当初の目的を思い出したらしく、駆はぱっと佐上を振り向いた。
「そうだ、部費! お前、なんだよあれ、20パーセントアップだって? 冗談もたいがいにしろよ」
「別に冗談のつもりはないよ」
「コーヒー飲みますか? 駆くん。インスタントですけど」
 のんきな水原の口調に、駆は「いらないっ」と怒鳴ってから、再び佐上につめよった。ちなみに水原は誰にでも敬語を使うが、実は駆や恵と同じクラスの二年生である。
「基本的に文科系クラブの部費は部員の頭数に比例するって原則があるだろ。後は経費がかかったり、学校に貢献しているところやコンクール入賞とかの実績があるところは別だけど、たった六人の部員に……」
「七人」
「な、七人の部員に、なんの実績もなくて役にも立たないようなオカ研の部費を上げる必要がどこにあんの? そのくせ毎期毎期部費アップ部費アップって、いったいオカ研の……」
「オカ研て呼ぶな。オカルト研究会だ」
 眼鏡の下の眉をわずかにひそめて佐上がそう主張すると、駆は、きーーっと両手を振りまわした。
「おれが、何て呼ぼうが勝手だろ!」
 まあまあ、と水原がなだめながら、コーヒーカップを差し出す。
 いらないと言ったくせに勢いで受け取った駆は、カップの中を覗きこんで口元をしかめた。
 それに気づいた佐上が黙ってソファの背後を指すと、水原はああ、とうなずいて物置になっている部室の奥へと向かった。
 ガシャン、という音がして、牛乳を手にもどってきた水原を見て、駆はオカルト研究会には冷蔵庫もあることを知った。
 水原の手から1リットルの紙パックを取り上げた佐上は、駆の顔を見ながら黙ってブラックコーヒーにミルクを注いでやる。コーヒー、というよりもカフェオレみたいな色になったところで駆がかすかにうなずくと、佐上は牛乳を持った手を引いた。
「砂糖は切れてるんだ、それで我慢しろ」
 駆は少々不満そうながら頷く。
「次は買っといてやるから」
 再び、こくり。そこで頷くということがどういう意味になるのか、本人はもちろん全然気づいていない。
 おそるおそるカップに口をつけようとして、駆は不意にきょろきょろと辺りを見まわした。佐上はソファに、水原はパソコン前に腰を下ろしているのに対し、自分一人が立ったまま飲むのに抵抗を感じたらしい。
 佐上は体をずらしてソファに一人分の空きを作ってやった。
 駆が難しい顔をしてソファの上のクッションを見つめていても、佐上は「どうぞ」とも言わずに黙ってこちらを見ている。
 そもそもコーヒーを受け取ってしまったことが失敗だったのだが、それにも気づかない駆は、しかたなくなるべく佐上から体を離すようにして、ソファのすみっこに腰を下ろした。
 佐上はふいに片腕を上げると、ソファの背に腕をまわしてきた。
 直に触られるわけではないから文句は言えないが、そんなふうにされると相手との体格差を見せつけられるようで落ち着かない。
 完全なスポーツマン体型でがっしりと肩幅も広い兵三と違い、眼鏡をかけた佐上は見るからに文系人間らしく、ほっそりとしている。だが上背はあるし、横目でちらりと盗み見たところでは意外に胸板も厚そうで、駆は貧弱な自分の体を思うとおもしろくなかった。
 ずずっと下品に音をたてながらコーヒー(牛乳)をすする。
 パソコン前の水原の顔はディスプレイのせいで見えないが、時折カシャ、カシャと音がするのでキーボードを叩いていることはわかる。
 すぐ隣の男はどこを見ているのか何を考えているのかわからないが、なんとなく確かめにくくて、駆は黙って両手でにぎりしめたコーヒーカップを見下ろしていた。
 静かな室内。居心地がいいのか悪いのか、ただ自分からこの均衡を破るのが怖くて駆がじっとしていると、不意にかろやかなチャイムの音がひびきわたった。
 曙光学院の長い昼休みが終わったのだ。
 救われたようにぱっと顔を上げた駆は、うっかり手にしていたコーヒーカップのことを忘れて、いきおいよく立ちあがった。
 まだ半分ほど残っていたコーヒーの茶色いしずくが、佐上のズボンにはねかかる。
「おっと」
「うわっ、ごめん!」
 あせった駆がまた両手を振りまわしそうになり、佐上はあわててその体を引き寄せると、その手からコーヒーカップをうばった。
 ブレザーのボタンをはずして着ている佐上の胸元に倒れこむような形になった駆は、おとなしくされるままになりながら、とっさに自分の袖でズボンのシミをぬぐおうとしてあわてて止められる。
「おい、そんなとこで拭くな」
「駆くん、これで」
 水原が手際よくどこかからか出してきたタオルを受け取ると、駆はズボンの布地をつまんでそこに強く押し当てた。
 佐上がちょっと複雑そうな顔をするのを水原が笑みを隠しながら見守る。
「わるい、ゴメンな」
 わがままではあっても根は素直な駆は、自分が悪いとわかっているので正直にあやまる。
 タオルを動かすたびに、佐上の鼻先で柔らかそうな茶色の頭が上下に動いた。
「いいさ、たいした量じゃないし、そんなに目立たない」
「でも……」
「別にコーヒーの匂いもしないだろ?」
 言われるままに、駆は相手の太腿に鼻を寄せた。
 さすがの佐上もぎょっとして思わず体を引こうとするのを、駆はがっと相手の腕を掴んで「この匂い……」とうなるように言った。
「あれ、コーヒーの匂いするか?」
「違う! お前、煙草くさい!」
「えっ、そうか?」
 身に覚えのない佐上ではないが、今日はまだ部室で煙草は吸っていないはずだ。ポケットにだって入っていない。
「あーあ、部長、制服に匂いがしみついちゃってるんじゃないですか、気をつけないと」
 同罪の水原がにやりと笑った。
「そうかなぁ。おれは気づかないけど……。ま、もうすぐ衣替えだからいっか」
 佐上はくんくん、とブレザーの腕の匂いをかぎながら、首をかしげた。
「不良!」
 先ほどの殊勝さはどこへやら、ぱっと立ちあがった駆がきっと指をつきつけて言い放つ。
「不良って今どき……」
「いやしくも部長の立場にある人間が部室で喫煙なんかしていいと思ってるのか!」
「いやしくも、なんて難しい言葉よく知ってるな」
「ちゃかすな! 佐上!」
「別にちゃかしてないさ。だいたいそれを言うなら、生徒会役員ともあろう人間が、立ち聞きなんかしていいのかなぁ、中和駆君?」
 覚えのある駆の顔にかーーーーっと血がのぼった。
「そ、そんなことしてない!」
 ――あーあ、そんな言い方したら認めるのも同じでしょ。
 にやにや笑いの佐上と水原にくるりと背を向けると、駆は乱暴に部室の扉を引き開け、そこで振りかえった。
「いいか、絶対にオカ研のうさんくささをあばいて、廃部においこんでやるからな!」
 そうどなると、だだだっと階段をかけ下りていく。
「今どき捨てゼリフなんて吐くのはマンガのキャラクターか彼くらいじゃないのか」
「でも、かわいいんでしょ」
 図星を指されたからといって顔に表れるような薄い面の皮はしていない。
 佐上は黙って肩をすくめると、ポケットから部室の鍵を取り出し、水原に向かって先をうながすようにあごをしゃくった。

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