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そのなまえ
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「ダリア、ごはんだよ! ダリア!」
 ドッグフードの入った皿を片手に、環は庭へ出ていった。
 散歩とトリミングは専門家に任せているが、朝晩の餌やりはいつのまにか環の仕事ということになっている。動物、それもペットというものにはここに来て初めて触れたが、人間とは違い、ときには予想外の反応を見せる犬に、環もようやく慣れ始めたところだった。それにやはり無邪気になついてくる対象は可愛らしい。
「ダリア?」
 いつもなら環が呼ぶだけでどこからか飛んでくるのに、ダリアは一向に姿を現さない。
 変だな、と思いながら庭の奥へと進んでいった環は、ふと裏門がわずかに開いているのに気づいた。こちらは主に使用人らが出入りしている場所だが、正門と同じように普段はしっかりと施錠されているはずで、こんなふうに開けっぱなしになっているところを見たのは初めてである。
「まさかここから出ちゃったんじゃ……」
 環は不安になって、足元に皿を置くと、門に手をかけた。
 門を出ると、そこは比較的広い車道に通じていたが、車の往来はまったくない。
 それ以上門から離れるのもためらわれて、環が左右を見回すと、ふと、向こうの角に茶色い犬を抱いた男が立っているのが見えた。
「ダリア?」
 環の声に、それまでおとなしく抱かれていた犬がこちらを向き、ワン、と一声鳴いた。
「ダリア!」
 思わずそちらに足を踏み出しかけた環は、背中から何者かに抱きすくめられた。
「ちょっ……」
 驚いて身をよじろうとする体をはがいじめにし、背後の男が「いいぞ、今だ」と声をかけると、犬を抱いた男と、どこかから現れた一台の黒い車が音もなく近寄ってきた。
 最近の車はステルスモードではまったくエンジン音をたてないことが可能なのだ。
 身の危険を感じ取った環はとっさに警報装置のスイッチを入れた。ごく単純なものだが、マスターである雅裕が身につけた受信装置とリンクし合って、緊急時には互いに知らせることができるようになっている。とは言え場所を特定する機能などはついていないので、この場で拉致されてしまえばそれで終わりだった。
「はなせっ、いやだ!」
 悲しいかな、基本型がコンパニオン(話相手)タイプである環は、怪力の持ち主ではない。精いっぱい足を踏ん張って体を離そうとしても、組み付いた男の手はぴくりともしなかった。
「くそっ、重いな、こいつ」
 ただ、いくら小柄に見えようと、さすがに人工皮膚の下は金属であるから、体重だけは見かけの二倍以上ある。車へ連れこむのに手間取っている相手へ、重さと固さを武器に片腕を思い切り後ろに振り回した。
 がっ、とにぶい音と低い唸り声。
 正面から入っていればけっこうなダメージを与えたろうが、腕は、とっさに避けた男のこめかみをかするにとどまった。それでも顔のほとんどを覆うような大きめのバイザーがはずれて地面に落ちる。
「ちっ」
 その様子を見て取ったもう一人の男は、抱いていた犬を放り出して、自分も環を手を伸ばしてきた。
「ギャン!」
 乱暴に地面に投げ出されたダリアが悲痛な声をあげる。
「ダリア!」
 一瞬地面にうずくまったかのように見えた犬は、すぐに起き上がると、はげしく鳴きたてた。その吠え声に答えるように、「環!」という叫びがすぐ近くで聞こえた。
「マスター!」
 環は体をねじって屋敷の方を見た。
「マスター!」
 血相を変えた雅裕と道哉が門から飛び出してくるところだった。雅裕は珍しく生成りのニットとスラックスというくつろいだ身なりをしていた。常にきれいに撫で付けられている前髪が、ひどく乱れている。
「この野郎!」
 まず道哉が、少年の足を抱え上げようとしていた男の肩に手をかけ、顔面を殴りつけた。そのまま環を車内へ押しこもうとしていた男と雅裕がもみ合いになる。
 車内のシートの上になかば倒れこんでいた環は、運転席の気配を感じてはっと顔を上げた。
 今まで忘れていた三人目の男が車外へ飛び出すところだった。その手に光るものを認めたような気がして、環はあわてて半身を起き上がらせた。
「マスター!」
 運転手の動きはすばやかった。車の後ろを回り、雅裕の背後から近づく。彼も道哉も、それぞれの相手に夢中で、武器を手にした男の存在にはまったく気づいていなかった。
 環は飛び出した。
 彼には護衛機能はない。マスターはあくまで所有者に過ぎず、保護対象ではいのだ。
 自由意志――それは、幹彦が環に与えてくれたものだ。
「いやだ! 雅裕さん!」
 バチッと火花が散った。繊維が炭化し、人工皮膚の溶ける、嫌な臭い。電子部品が剥き出しになり、電磁ナイフから強い電流が走って小さな爆発音が起きた。広い背中に飛びつくようにしてかばった細い腕から、燻るように煙が上がった。

 
『環、お前は愛することを知りたいと思うかい。誰かに愛されたい、誰かを愛してみたいと考えることはあるかい』
 どうして、マスター。マスターの持たないものを、ぼくは欲しいとは思わない。ぼくは決して誰も愛さない。あなたを……一人で置いていったりはしないよ。



 真っ白な、無機質な部屋で、環は裸で天井から吊り下げられていた。十字に両手を開いたその細い体のあちこちから、色とりどりの無数のチューブとコードが繋がれている。それらは部屋の隅に置かれた大型の機械につながれ、白衣をつけた数人の男たちが忙しく動きまわっていた。
 少年の頭は深くうなだれている。
「スイッチを切ってるのか?」
 ガラス越しに廊下から作業を見守っていた雅裕は、その声に振りかえった。
 右頬に青あざをつけた道哉が雅裕の横に並び、ラボの様子を覗きこんだ。
「いや、待機状態だそうだ。五感の機能は低下しているが、意識はある。睡眠時と同じらしい」
「ふーん、ずいぶんおおごとだねぇ。おれなんて警察で話をしてから、実家にも寄ってきたんだぜ。一日仕事じゃないか」
「いや、腕の修理は案外簡単に済んだんだが、この機会に全身のオイル交換もした方がいいと言われてね。そいつに時間がかかっている。点検も二カ月にいっぺんくらいはしなくちゃいけないんだそうだ」
 へえ、と相づちを打った道哉は、物珍しそうにガラスに顔を近づけた。
「それがかなりの費用でね。労働用途のものなら援助金も出るそうだが、環は特にプロトタイプだろう。贅沢品とみなされるとかで、全額自費負担だ。これが定期的となると維持費も馬鹿にならないな」
 だがそういう雅裕の口調にはたいして嫌そうな響きはない。彼にはそれだけの余裕があるからだ。もし費用を理由に幹彦が彼に環を託したのなら、それは確かに正しい選択だったろう。
 道哉はポケットに手を伸ばし、そして気づいたように周囲をきょろきょろと見まわしたが、目的のものが見つけられなかったらしく、やがて諦めたように手を下ろした。
 気づいた雅裕は薄く笑って、甥を廊下の端のドアへと導いた。
 ちり一つ落ちていない、真っ白な無人の通路を進むと、喫煙所らしきところら行き当たった。
 早速シガレットケースを取り出した道哉は、一本とって相手にも勧めた。
 ここ、ストーン社付属の研究所は防音措置がしっかりととられているせいか、二人のいる場所にはなんの物音も伝わってこない。
 しばらく、二人が間欠的に紫煙を吐き出す音と、壁ぎわの換気装置の低い唸りだけが、静かな室内に響いていた。
 不意に、雅裕が口を開いた。
「実はオイル交換だけじゃなくて、一通り環の体を調べてもらったんだ。渡部幹彦秘蔵のプロトタイプっていうんで、研究員たちもかなり勢い込んでいたが……」
「何かあった?」
「いや、何も。詳しい報告書は後日もらえるそうだが、ざっと見たところ、特殊な機能などは一切見つからなかったそうだ。SW381――環の一つ前の汎用型と、基本性能で何ら変わるところはなかったらしい。部品も手足なんかの末端部分なら、大部分がそちらを流用できるそうだ」
「そっか」
「報告書をもらったら英也さんにもコピーを渡すよ。彼の方からそれを公開してもらえば、もう親戚連中も環を狙ったりしてこないだろう」
「うん、それがいい」
「あんな、金ばかりかかって手のかかる大きな玩具を、誰も横取りしようなどと思わなくなるように……」
 道哉は、その口調にこめられた優しさを感じ取った。かつて、この叔父から自分もそんなふうに呼ばれてみたいと熱望したものだ。
「あの子を愛しているんだね」
「ああ、愛しているよ」
「どんなふうに? 息子のように?」
「どうだろう……わたしには息子がいないからね。正確に息子のようにかはわからないが……。だが、決して失いたくないものとして、愛しているよ」
 指の先の煙草はいつのまにか短くなり、道哉はそれを灰皿でもみ消すと、新しいものに火をつけた。
「あの子、あんたをかばったな」
「そうか?」
「おれにはそう見えた」
「では、そうかもしれない」
「あの子も、あんたを愛していると思う」
 雅裕は煙草を咥えて煙を吸いこんだ。細い紙筒の先が、ぽうっと赤く灯った。
「それならわたしは嬉しい」
「だが、あの子は認めないよ」
 道哉は珍しくきつい口調で言った。
「あの子は自分が誰かを愛しているなんて、決して認めようとはしないよ。怖がっているのか何なのか――たぶん生みの親でもあり育ての親でもある幹彦さんを裏切れないと思っているんだろう。あんたはそれで……」
 それでいいのか、と言おうとして、道哉は不意に雅裕の顔に浮かんだ穏やかな表情に気づいた。
「あんた、もしかして……呪縛を解く方法を見つけたのか」
 期待をこめた問いに、雅裕はいや、と軽く頭を振った。
「それはきっと一生無理だろう。環と幹彦さんの絆は深い。わたしたちなどきっと思いもよらないほどにね。前にも言ったが、わたしには専門家が与えた暗示を解いてやることなど不可能だ。だが、新しいことを教えてやることはできるとはできると思っている。素人なりのやり方で、ゆっくりとね。時間はかかってもいい」
 雅裕は立ち上がり、道哉に背を向けて、何もない白い壁に向かって続けた。
「環が幹彦さんを裏切れないというのなら――それはそれで、あの子が前のマスターを愛しているということだと思う。たとえ二人がそれを認めなかったとしてもね」
 道哉、と雅裕は静かに言った。
「こんな言葉を知っているかね。キャベツと呼ぼうが薔薇は薔薇――」
「いや、知らない。なんなの? キャベツ……?」
「わたしも正確な出典は忘れたが、たしかシェイクスピアか何かだった。たとえキャベツという名で呼んだとしても、薔薇は薔薇で、その色も香りも、何も損なわれることはないという意味さ」
 雅裕はじっと白い壁を見つめた。その背中を見ていると、道哉は、ふいに前の無機質な壁が開けて、明るい緑の、彼の書斎から見えるあの心休まる庭の景色が広がるかのように思えた。
「言葉はしょせん記号にすぎない。それを何と呼ぼうが、思いの本質は変わらないということだよ――」

 
 環は手術着のような簡素なブルーのスモックを着せられ、横たわったまま、黙ってラボの白い天井を見つめていた。交換されたオイルが適温まで温められ、順調に体内を巡回し出すまで、今しばらく安静にしていなくてはならない。
 環は、新しく皮膚を張り替えてもらった左手を、無意識に反対の手で撫でていた。データ傷害は最小限で済んだらしい。電磁ナイフは電流よりも磁気によるソフトウェアへの損傷が怖いのだ。
 部屋の隅にある、最新型の大型機械。先ほどまで自分に繋がれていたチューブ類は、今は天井にまとめて吊るされている。
 環には馴染みのある光景だった。
 幹彦の屋敷内部にあった研究所も、似たような設備を備えていた。同じように清潔で、無機質だった。けれど違う。
「違う……違う」
 環が漏らした言葉を、点検作業が終わってからそばに付き添っていた雅裕が聞きとがめた。「何が違うの?」
 ぼくに触る手が違う。ぼくを扱う手が違うんです。
 環の伏せた目蓋の下から、すうっと液体が流れ落ちた。
 この無駄とも思える機能でさえ、たった一人の人間から与えられたものだ。
「ぼくに触るのは、あの人だけだった。ぼくの体を調べるのも、壊れた箇所を修理するのも。ぼくにおかしなところがあると、あの人はすぐにぼくを研究所に連れこんで、一晩中でも検査してくれた。やりかけの仕事があっても、いつもぼくを優先してくれた。故障した部品は、他人に任せたりしないで、あの人が自分の手で交換してくれた。余計な負荷がかからないように、忙しくてもぼくに無理な作業はさせなかった。何も言わないけど、ぼくは知ってた。あの人は、あの人はいつもぼくを気遣ってくれた……!」
 雅裕の大きな手が、環の頭をそっと引き寄せた。
 男の胸に頬が押し当てられる。雅裕はセーターの上にラボ立ち入りの規則である白衣を羽織っていたが、環はその下に息づいている生身の人間の鼓動を感じ取ることができた。
 幹彦とはこんなふうに触れ合ったことは一度もなかった。その肌のぬくもりを知ることもかなわなかった。雅裕のようにあからさまに自分を甘やかしたり、優しい言葉をかけてくれることはなかった。それでも、環が不満を感じたことは一度もなかった。
「幹彦さんは、きみを気にかけてくれた……?」
 雅裕の言葉は優しかった。そのためにいっそう涙があふれ、環は静かにうなずいた。
「きみを大事に扱ってくれた?」
「……ハイ」
「幹彦さんは、きみが大切だったんだね……」
「マスター……!」
 環は雅裕の体を押しのけると、両手で顔を覆った。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「なにを謝るの?」
「ぼくにとって、マスターはたった一人だけだ。マスター! マスター! ぼくだってマスターが大切だった。マスターが一番大事だった。ずっとそばにいたいと思ったのに……!」
 もういない……!
 あの朝、研究室の机に突っ伏したまま動かなくなっている主人を見つけたときの気持ち。永遠に続くと思われた時間が、ふいに断ちきられたと知ったときの気持ち。
 環は気づいていた。幹彦が自分に教えたくなかったのは、きっとこの喪失感だったのだと。
 雅裕は背を向けた環の左手を取ってそっと持ち上げた。
「ああ、もうすっかり綺麗になっている……」
 環は手を取られたまま、じっとその言葉を聞いていた。
「さっき、ここの人に聞いたんだけど……」
 雅裕の口調は穏やかだった。彼はいつもそうだ。ただ優しいだけじゃない。うまく説明はできないけれど、彼が話すのをいつまでも目を閉じて聞いていたいような、そんな気分にさせた。
 ――ここに、何か生まれてくるようじゃない?
 以前、半分ふざけた口調でそう言いながら、道哉が左胸を押さえてそう言った。そうして、青年は墓場の隅に生えていた、名も知らぬ雑草の花を摘んで、スーツの胸ポケットに挿したのだ。
「普通、きみのようなタイプのアンドロイドは、だいたい十五年くらいが寿命なんだってね。でも、きみは大事に手入れされて、丁寧に扱われていたから、きっともっと保つだろうって。中枢部分に良い部品が使われているし、点検さえ怠らなければ、たぶんうんと長生きするだろうって。持ち主の愛情を感じるねって言われた」
 愛、という言葉に環の体がぴくんと震えた。
 それをなだめるように、雅裕が左手をそっと撫でる。
「きみは以前、自分の欠陥について、わたしがどう思うか訊ねたよね。きみに『愛』という概念が欠けていることについて、かまわないかときいた――かまわないよ。わたしはまったく気にしない」
 雅裕の指の腹が、新しく張られたばかりの皮膚の上をたどっていく。
 この人が傷つかなくてよかった。
 運転手のナイフから必死で守ろうとしたあのときの衝動を思い出し、環は寝台の上で身をよじって、相手の顔を見上げた。
「わたしのことは名前で呼べばいい。もともとそうして欲しかったし、きみの言う通り、きみにとってマスターは幹彦さんただ一人だろう。その代わり、お願いがある」
 雅裕の声を聞いていると、環はふいに道哉のように胸の上を押さえたくなった。
「きみとわたしはこれから長い時間を一緒に過ごす。きっと終わりはくるだろうが、まだ時間はあるだろう。その長い時間を使って、きみには名前をつけてほしいんだ。それが、わたしのお願いだ。愛でないなら、それでいい。それなら、きみがそれに新しい呼び名をつけてほしい。きみを何よりも大切にしていた幹彦さんの気持ち、マスターは彼一人だと泣いた、きみの幹彦さんに対する気持ちに」
 雅裕の、大人の男の大きな手が、一見華奢な少年の小さな手のひらに合わさった。
「そしてわたしをかばってくれたきみの気持ちと――きみを離したくないというわたしの気持ちに」
 環はそっと指に力をこめた。「雅裕さん……」
 応えるように握り返す、確かな力がある。二人の指があらかじめその場所を定められたパズルのピースのように、しっかりと寝台の上で組み合わさった。


 環の、金属部品で固められた胸の奥に、道哉がポケットに挿したのとよく似た雑草が、白い小さな花弁を開いた。

 その花はそこにひっそりと、いつか名を呼ばれるのを待っている。

【終】

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