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そのなまえ
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『お前は欠陥品なのだ』
 ――はい、マスター。
『人間そっくりに笑い、泣き、怒りもするが、肝心なものが欠けている』
 ――知っています、マスター。
『なぜなら、わたしがそう造ったからだ。お前は、わたしそっくりだ。ヒトとして、あるべきものが備わっていない』
 マスター、ぼくはかまわない。マスターと同じだというのなら、ぼくは……。

 
 ロボット開発分野でかつて天才と呼ばれた一人の男が、ひっそりとこの世を去った。彼の死を看取ったのは、一体の高性能アンドロイドだった。



「SW382P……? なに、それ?」
 テラスへと続く天井までの大きな窓が開け放たれている。午後の風が年代物のレースのカーテンをそよがせ、深緑の香りを室内へと運んでくる。
 いくらか色あせてはいるが、全面に刺繍をほどこしたお気に入りの椅子に腰を下ろし、肘をついていた青年は、男の言葉に顔を上げた。
「彼の型番だ。ストーン社製、渡部幹彦(わたべみきひこ)設計による382型プロトタイプ――そういう意味らしい」
 窓際に立った男は、庭を眺めたまま、すでに繰り返し読んで暗記してしまった事柄を口にした。
「へえ、試作品(プロトタイプ)……じゃ、けっこう貴重なんじゃないの、それ」
「そうなんだろうか。わたしはあまりこの分野には詳しくはないのでね。ただ、確かに少し変わっているように思う」
「へえ、どんなところが?」
「……ひとことでは説明できないな。お前も会ってみればわかるだろう。高性能アンドロイドとはあんなものなのか? 単に量産型との違いとは思えないのだが……」
「ふーん、でも、ま、いいことだと思うぜ。ロボットでもアンドロイドでも、あんたが誰かをそばに置くっていうのはさ」
 青年は長い脚を組み替えた。
 窓際の男が自宅でも三つ揃いで全身隙なくまとめているのに対し、青年は薄いピンクのシャツ一枚にグレーのスラックスというかなりくつろいだ格好である。シャツの襟など他の者ならだらしがないほどくつろげられているが、それでもこの青年の場合はどこかに品の良さがあった。
「映子さんが出てってもう四年だろ。あんたもそろそろ傷を癒さないとな」
「わたしが傷ついているように見えるのかね」
 振りかえった男の顔には笑みが浮かんでいた。
 きれいになでつけられたこめかみには白いものがのぞいている。だが、がっしりとした顎の線などはまだ若々しく、優美なラインを描く鼻梁は、男と青年が血族であることを物語っていた。
「思うね。複数の女との噂なんかを聞かされちゃあ、特にね」
「お前に言われるとは心外だな。英也さんが嘆いていたぞ。男女かまわず毎晩派手な醜聞をばらまいて、尻拭いももううんざりだと……」
 父親の名を出されても、青年はけろりとしていた。
「おれとあんたは違うもの。あんたは誰か一人と一緒に年をとっていくタイプだ」
 二十も年下の青年にわかったような口をきかれ、さすがに反論しようとした男は、ドアをノックする音に気づいて顔をそちらに向けた。
「お入り」
 重い扉を開いたのは十三、四に見える少年だった。仕立ての良い白いシャツに黒のズボン、もちろんシャツのボタンは首までしっかりととめられている。真っ黒な髪と目が白い肌に印象的だったが、その分人工的な、人形めいた作りが強調されているようだった。
 少年は廊下に置いたワゴンから盆を取り上げて室内に入ってきた。
 コーヒーの強い香りが室内にただよう。
「へえ、きれいな子だね。きみが環(たまき)か。うん、確か環って言うんだよね。その名前、幹彦さんがつけたの?」
「はい、マスタ――あの方の亡くなられた弟さんの名前だと聞いています」
 少年の声は小さかったが、よく通った。
 青年が確認するように振りかえると、男は頷いた。
「ああ、若くして亡くなったと聞いている。確か交通事故か何かだ」
 ふーん、と答え、青年は優雅にのびをしながら、少年の顔をじろじろと眺めた。環はまったく気にする様子もなく、黙ったまま銀の盆からコーヒーカップを一つは青年の前のテーブルに、もう一つはわずかに迷って、窓際のデスクの上に置いた。
「ありがとう」
 男がうなずく。
「もしかして、その顔もその弟がモデルなのかな」
 青年の問いに、環はかぶりを振った。
「わかりません。あの家には環さま――あの方の弟さんの画像、映像ともいっさいありませんでしたから。あの方も何もおっしゃいませんでした」
 青年は、もう一度、ふーん、と言った。
「おれは道哉(みちや)。この人の姉貴の息子。つまり甥ね」
 環は丁寧に頭を下げた。
「噂の天才が雅裕(まさひろ)さんに遺産を残したっていうんで親戚じゅう大騒ぎでさ。今日はおれが敵情視察ってことで送りこまれたわけ」
 道哉よしなさい、と男が小さな声でたしなめた。
「幹彦さんは変わり者で有名だったからね。親戚連中との付き合いもなかったし。屋敷からほとんど一歩も外に出なかったってホント?」
 前の主人のことをそんなふうに言われて、さすがに困ったのか、環が男の方を見た。
「遺言で財産はあらかた寄付されたのに、きみだけが雅裕に残されただろ? 従兄弟同士ってだけで、生前特に交流があったなんて聞いてないのにさ。いったいどういう価値があるんだ、って目の色変えてるやつもいるから、マジで気をつけた方がいいぜ」
「ぼくは、なんにも価値なんかありません」
 少年の口調はきっぱりしていた。「欠陥品ですから」
「欠陥品? どこか壊れてるの?」
 環は再びかぶりを振った。「情動面における、先天的なものだと聞いています。直りません。でもマスターにお仕えする分に支障はありませんから」
「マスター? マスターって雅裕さんのこと? そう呼んでるの?」
 青年がおかしそうに尋ねると、男は心底困っている、というように眉を寄せた。叔父のこんな顔を見るのはなかなか珍しい。
「おもはゆいからやめてほしいと言ったんだが……」
「ぼくの所有者は皆マスターです。そう呼ぶように教育されました」
「へえ、そういうもんかねぇ。ま、雅裕さんもアンドロイドの主人になんかなるの初めてだろうから、ここは環に従っておくべきなのかもね」
 青年はそう言うと、環の置いたコーヒーカップを手にとった。
「へえ、うまい。これってきみがいれたの?」
「はい」
「いいなぁ、おれもこんな子がそばに欲しいよ」
 青年はそばに立つ環の頭に手を伸ばし、柔らかくカットされた黒髪をひとふさ手に取った。
「いい手触り」
 その口調も仕草もあまりにさりげなく率直だったので、環は思わずうっすらと微笑んだ。
「あ、笑った。かわいいなぁ」
「道哉、いい加減にしなさい」
「いいじゃんか。別にとりゃしないよ」
 青年は機嫌よく、少年の髪をなでた。
「幹彦さんがきみを雅裕さんに遺したのもわかる気がするなぁ。他のアンドロイドはみんなストーン社に引き取られたんだろ? きみは愛されてたんだなぁ」
 それまで黙って髪を弄られていた環は、その言葉にすっと身を引いた。
 わずかな仕草だったが、おとなたちは見落とさなかった。
「いいえ、それは違います。ぼくは愛されてなどいませんでした」

 
 環がカップを片付けて部屋を出て行くと、雅裕と道哉は顔を見合わせた。
「うーん、ちょっと変わってるって意味がわかったような気がする……」
「情動面に欠陥があると本人も言っていたから、それでだろうか」
「けど、ちゃんと笑ったろ。礼儀正しい、いい子のように見えたけどな」
「ああ、今は身の回りの雑用しかさせていないが、ちゃんとこなすし、問題があるようには見えない」
 道哉は足を投げ出すと、ずるずると椅子にもたれこんだ。
「愛されていなかった、って言ってたよな。もしかして、幹彦さんに虐待されてたのかな」
 煙草に火をつけようとしていた動きを止め、雅裕は眉をひそめて甥を見やった。
「虐待? 殴ったりとか、そういうことか?」
「肉体面でも、精神面でもだよ」
「アンドロイドを精神面で傷つけることなんてできるのか」
 道哉はだらしなく半分寝そべった姿勢で、静かに雅裕の顔を見上げた。
「それが渡部幹彦の専門だったんだよ、叔父さん。人間のように泣き、笑い、怒り、愛し、傷つくロボットの研究がね」



「環、環!」
 ガラス扉を開け放ち、雅裕が呼ばわると、「マスター」という声が庭の奥から聞こえた。
「環、どこだ?」
 声をかけつつそのまま外に出ると、目当ての姿は池の近くにあった。しゃがみこんでいる少年の足元をちょろちょろする茶色い影がある。
「マスター、ダリアが……」
 血統書付きのアメリカンコッカースパニエルに花の呼称などをつけたのは、雅裕の元妻だった。離婚の話し合いにこの犬のことなど一度も話題にのぼらず、彼女は当たり前のように自分で購入した犬を置いていった。
 定期的に手入れされる長く優雅な赤茶色の毛の中から、黒い物が覗いている。
「どうしても放さないんです……」
 ダリアが口にした革靴の端をしっかりと握ったまま、環は顔を上げた。
「おやおや、ダリアはもういいおとなのはずなのに、まだそんないたずらをするとはね」
 小さな犬と靴を取り合っている少年の姿が微笑ましく、雅裕は思わず口元をゆるめた。
「そんなふうに引っ張っても、遊んでもらっていると思うだけだよ。どのみちそんなに噛まれてしまってはその靴はもうだめだろう。かまわないで放っておきなさい。飽きたら放すだろうから」
 環ははい、と答え、言われるままに靴から手を放して立ちあがった。
 足元で、ダリアが激しく尻尾を振っている。
 高性能アンドロイドといっても中身はロボット、当然消化や排泄機能はない。食事もしないし、習慣としての睡眠はとるが、実際にはその必要はない。
 少年の白い顔は昼の陽射しの下、汗一つかいていなかったが、わずかに髪が乱れ、ふっくらとした頬にかかっていた。
「何かご用だったでしょうか」
「ああ、少し話をしたいと思ってね。書斎でいいかな」
「わかりました」
 雅裕は屋敷に向かい、振り向いて環がついてきているのを確認した。そして「ほら、ごらん」とその背後を指差す。
 あっという間に靴への興味を失ったらしいダリアが、ハッハッと口を開けて二人の後ろをついてきていた。
「お前、あんなに欲しがったのに、もう捨ててきちゃったの?」
 環がそう言って笑った。屈託のない笑みだった。
 雅裕と映子の間には子供はなかった。
 少年を引きとって半月あまり。人間とかアンドロイドとか、体の構造における違いを超えて、一つの存在として環を愛しいと感じる心が、雅裕の中に確かに芽生えていた。

 
「今日は、幹彦さんの話をしたいと思ってね」
 雅裕は、さっと伏せられた環の長い睫毛を見やった。
「あの方の?」
「あの方? 環は幹彦さんのことをそう呼ぶね。なんだか他人行儀だけど、生前もそうだったの?」
「いいえ、マスターと呼んでいました。でも今のマスターはあなたですから――代替わりをしたのですから」
 環を刺繍入りの椅子――道哉のお気に入りの椅子だ――に座らせると、雅裕はその向かいの長椅子に腰を下ろした。
「幹彦さんとはどのくらい一緒にいたの? きみは彼が造ったんだよね?」
「はい、お屋敷の中の研究所で生まれました。製造後七年と五ヶ月になります」
「彼は、どんな人だった?」
「どんな、とは……」
 環は困惑したような顔を上げた。
「道哉も言っていたけど、従兄弟とはいえ、わたしはほとんど付き合いがなくてね。写真や映像は見たから外見は知っているが、彼の性格とかまったくと言っていいほど知らないのだよ」
「性格ですか……」
 環は再び下を向いて、しばらくためらってから口を開いた。
「ぼくはあの方以外の人間とあまり会うこともなかったので、彼の性格がどうだったのかなんて、よくわからないです。ただ、静かな人でした。あまりしゃべらない……」
「静かな?」
「はい、道哉さんより、ずっと……」
 道哉より静かな人間か。雅裕は環のセリフを繰り返して笑った。
「そんな人間はゴマンといる」
 雅裕が口をつぐんだので、二人の間に沈黙がおりた。
 階下で家政婦がダリアを呼ぶ声がする。今日は水曜日なので、トリマーが訪ねてきたのだろう。
「あの……」
 思いきったように、環が口を開いた。
「ぼくを引き取ったことで何か問題があるのでしょうか」
「問題? どうして?」
「あの方のことを訊かれたので、そうなのかと。前に道哉さんがご親戚のことで何かおっしゃってましたし……」
 あああれね、と雅裕はうなずいた。
「確かにうるさく詮索してくる連中はいる。幹彦さんがきみをわたしに残したことが気に入らないんだろうね」
「ぼく、ここにいられないんですか?」
 質問は率直だった。
 雅裕は静かな目でテーブルをはさんだ少年を見やった。
「ここにいたい?」
「はい。ここは静かですし、気に入っています。マスターも良くしてくださいますし……できればここにいたいです」
「そう」
 雅裕は立って窓際のデスクに近づくと、引き出しから煙草とライターを取り出し、火をつけてまた長椅子に戻ってきた。
 環はその一挙手一投足を見守っている。
「それを聞いて安心したよ。もともときみを手放す気はないけどね。ただ、厄介な人間がいるのは本当だから、気をつけてね。知らない人についていったりしないように」
「なぜぼくのことなんか気にするんでしょう。ストーン社に引き取られたアンドロイドの中には、最新のもっと高価なタイプがたくさんありました。ぼくはもう旧型ですし、開発中止になったプロトタイプですから、そんな価値なんかありはしないのに……」
「だが、きみはストーン社行きにはならなかった。奴らが気にするのはそこだろうね。なにしろきみはあの渡部幹彦のたった一つの遺産だ。何か秘密があるのかもしれないと思うのも無理はない」
 環は強く頭を振った。
「秘密なんか、ありません。本当です。ぼくがストーン社に引き取られなかったのは、きっとぼくが欠陥品だから……」
 雅裕は静かに煙を吐き出すと「その話なんだけど」と言った。
「情動面で欠陥があるって言ってたよね。わたしが見るかぎり、きみはしつけもきちんとしているようだし、問題があるようには見えないんだけど。欠陥って何だい?」
 環は答えなかった。
 ダリア、ダリア、という声が屋敷の中でまだ聞こえている。ブラッシングがあまり好きではない犬が、どこかに隠れてしまっているのだろうか。
「わたしはあまりロボットのことは知らないのできみに訊くんだが、アンドロイドというのは所有者、つまりマスターに隷属しているの?」
「意味がよく……?」
「マスターには絶対服従かってこと。盲目的に崇めるようになっているの? わたしや――前のマスターを」
 それはアンドロイドの用途によって違います、と環はよどみなく答えた。
「軍事用に開発されるものなどは盲従するようプラグラムされているそうですが、ぼくに関して言えば答えはノーです。もちろん最低限の忠誠心は組み込まれていますが、ぼくの意思はかなり自由です。より人間に近い感情を備えるためには自由な心が必要なのだというのが、あの方のモットーでしたから」
「そうか、それなら幹彦に気がねすることはないだろう、正直に答えてほしい」
 雅裕は片手を伸ばして、陶器の灰皿で煙草をもみ消した。
「彼に殴られたことはあるかね?」
 環は明らかに意表を突かれた、という顔をした。
「そんな……ありません。だいたいアンドロイドを手で殴ったりするのは無意味です。人間よりずっと丈夫ですし、痛覚も一応ありますが、自由にカットできるようになっていますから」
「それなら精神的にはどうかね。罵られたり、苛められたりといったことは?」
 少年は強くかぶりを振った。
「あの方は……そんな方ではありません。それはぼくが失敗したり、仕事が行き詰まっていたりしたときは怒鳴られることもありましたけど……。先ほども言いましたが、とても静かな人でしたから。そもそもあまりかまわれなかったというのが本当かもしれません」
「無視されたということ?」
「いえ、そういうわけでも……。必要のあるときはちゃんと話もしました。ぼくにだけではなく、あの方は誰に対してもそういう人だっんだと思います。人間嫌いでできるだけ他人とは会いたくない、と口癖のようにおっしゃっていました」
 環はあくまでも幹彦をかばった。そしてその言葉に嘘はないようだった。
「それならどうして……」
 雅裕は膝の上に肘をつき、顔の前で両手を組んで小さくため息をついた。
「きみは愛されなかったと思ったんだね?」
「え?」
「この前道哉に言っていただろう。自分は幹彦に愛されてはいなかったと。そう感じた根拠は?」
「それは……あの方にそう教わったからです」

「彼が自分の口でそう言ったのかね」
「そうです」
「それはどんなときに?」
「特にどんなときということはなく、思いついたように、いつもです。特に造られて間もない頃は繰り返し聞かされていました」
 環は雅裕の視線をまっすぐにとらえた。その口調に傷ついた色はなく、単に事実を述べている、といった淡々と下響きがあった。
「ぼくだけではありません。あの方は誰も愛さない、と言いました。愛する、愛されるということを知らないのだと。心の中で、その部分が欠けているのだと。そしてぼくもそのように作ったのだそうです」
「きみを?」
 雅裕は混乱する頭で、少年の整った顔を見つめた。
「ぼくには愛するということがわかりません。愛という概念がないのです。それがぼくの欠陥です」
 雅裕はしばらく少年の言葉をかみしめるようにして、黙って座っていた。やがて立ちあがると、窓に近づき、両開きのそれを左右に開く。
 環は椅子に座ったまま、彼の後ろ姿を見上げていた。
 ――この人は前のマスターよりずっと背が高い。肩幅も広い。
 少年は初めてそのことを実感した。
「きみはそのことをどう思った?」
「そのこと?」
「欠陥があるということをだよ。悲しいと思ったかい?」
「いえ、別に……。人間として重要なものが欠けているのだと聞かされてはいましたが、特に日常生活に不自由はありませんでしたし。それにマス――あの方が自分と同じだとなぐさめてくださったので、満足でした」
「……そう」
「あの、マスターは気になさいますか。ぼくのこと」
「どうだろう」
 雅裕は窓辺で振り向いたが、逆光のためにその表情はよく見えなかった。環には人間と同程度の視力しか備わっていない。
「正直言って、まだよくわからないな。アンドロイドの感情といったもの自体よく理解していなしね。ただきみの言う通り、日常生活にはなんら不自由はないようだから、問題はないのだろう」
 環はほっとしたように見せた。
 だが、雅裕の次の言葉でその微笑みは引っ込む。
「きみも彼を――その、前のマスター、つまり幹彦さんを愛してはいなかった?」
「はい。尊敬はしていましたしたが、愛してはいませんでした。だって、ぼくにはその機能はないのですから」
「そう」
 雅裕がそう言ってまた背を向けると、環はひそかに体の力を抜いた。



 幹彦の墓参りに行こう。
 そう言うと環はわずかに顔をくもらせたが、雅裕は気づかないふりをした。
 幹彦の墓は郊外の、代々の渡部家の人間が眠っている墓地の一画にあった。おそらく生前幹彦はここに来たこともなかっただろう。
 環に持たせていた花束を供えさせると、雅裕は幹彦の名前が刻まれた滑らかな墓石の表面をじっと見下ろした。
 ロボット開発分野の第一人者。若き天才。人嫌いの変人。
 幼くして両親を亡くしていたが、渡部家の財産が成人するまで彼とその弟を守り、同時に翻弄した。多少人付き合いが悪くても、それまで人並みの社会生活を営んでいた幹彦が突然人里離れた屋敷に引っ込み、研究に没頭するようになったのは、弟を亡くしてからだと言う。
 当時雅裕は海外で仕事をしており、父方の従兄弟の葬式には出席しなかった。
 雅裕はふと振りかえり、離れたところに立っている環に気づいた。いつものように、少年の顔は陶器のように白かった。
「どうした? 幹彦さんと話をしないの?」
 環は黙って首を横に振った。
「ああ、墓を見るのは初めて?」
「その下に、あの方の骨が埋められているのでしょう?」
 小さな声での問いかけに、雅裕はそうだ、とうなずいた。
「もしかして怖いのかな。アンドロイドにも怖いという感情があるの? 死人を気味が悪いと思う?」
「怖いという感情はあります……。でも骨や灰が気味悪いわけじゃない……」
「じゃあどうしてそんなに離れている? 別に嫌なら無理にしろとは言わないけれど、そういうわけでもなさそうだ。何を遠慮しているの? きみは幹彦さんの話をするにも避けたがるようだけど……」
 環はぴくっと肩をふるわせ、深くうつむいた。
「今のマスターはあなたですから……」
「だからなに? 前のマスターのことは忘れなければいけないとでも言うわけ? そういう規則なの?」
 違います、と環はかぶりを振った。柔らかな質の髪がふわりと揺れる。
「ぼくは……ただ、こんなふうにするの、あの方は喜ばなかったんじゃないかと思うんです。もういないのに、気にかけたり、きれいなお墓を作ったり、まるで生きているかのように会話したり、懐かしんだり――」
 雅裕は視線を落としたままの環をじっと見下ろした。
 彼はすでに渡部環――幹彦の弟の写真を手に入れていたが、死亡年齢以外で目の前の環と似通っているところはないように思えた。写真の中の少年は元気いっぱいに笑い、画像を通してもその溌剌とした陽気さが伝わってきた。
 アンドロイドの環の、静かな、人形めいた容姿は、どちらかというと幹彦に似ていた。どこがどう、と具体的には指摘はできないが、幹彦は確かに己の作品に自分を投影している、と雅裕は思った。
 環の言葉は、そのまま創造主である幹彦の言葉だ。
 そこまで人を拒絶するのか? 死後もなお?
 雅裕はふっとため息をつき、環になだめるような笑みを見せた。
「心配はいらない。どっちみち幹彦さんはもう亡くなっているのだから、喜ぶも何もないだろう」
 それでもなお躊躇している少年の様子に、雅裕は「きみは宗教を信じているの?」と話題をずらした。
「いいえ、ぼくは先天的にも後天的にも無宗教です」
「そうか、わたしもそうだ。習慣として宗教行事には参加するが、基本的に無神論者でね。生まれ変わりも死後の世界も信じていない。だからこういったものは――」
 雅裕はぐるりと墓地の中を見まわした。
「あくまで生きている人間のためのものだと思っている。死んで消滅した者は、自分の骨や灰がどうなろうと気にしないよ。気にすることもできない。墓は生者のもの。墓参りもまたしかり。わたしが今日きみを誘ったのは、あくまでも自分のためだよ」
 環は黒い大きな目を上げて、雅裕の顔を見つめた。
「だからきみも安心するといい。幹彦さんをなつかしんだからと言って、それは彼のためじゃない。彼を話題にするのを怖がることはないよ。それがすぐに彼を愛しているということにはならないのだから――」

 
 二人が墓地の門を出ようとすると、離れたところから「お二人さん!」という声がかかった。
「道哉。なんだ、お前いきなり……。よくここにいるとわかったな」
「蛇の道は蛇ってね」
 青年はそう言って笑うと、もたれていた車から体を離した。見ると、大型のマニラ封筒を手にしている。
「はいこれ」
「なんだ?」
「父さんからだよ。遺産の件であんたにちょっかい出してきているやつのリスト。ただ人目についちゃまずいんで、ここで目を通してくれる?」
「英也さんが? わかった。ありがたく拝見しよう」
「おれの車の中で見たら? あんたのとこの車は通りの向こうで見たよ。大丈夫、その間環のお相手はおれがしてるから」
 雅裕はわずかにためらったが、環に「すぐ済むから」と言い、封筒を受け取って道哉のスポーツカーの助手席に乗り込んだ。
 色付きのウィンドウ越しに、常にない厳しい表情で書類をチェックする彼の横顔が見えた。
「あの、道哉さんはお墓参りしないんですか」
「おれ? うーん、今日はいいや。こんな格好だしね」
 派手なパステル色のスーツを見下ろして笑う。
「誰も見てないのに……」
「ばかだな。服は言い訳。本当は墓地なんて陰気くさい場所、好きじゃないからさ」
 いかにも道哉らしい言葉に、環は声に出さずに笑った。
「どう、雅裕さんとこは。暮らしやすい?」
「はい、とてもよくしていただいています」
 環は迷うことなく答えた。
 道哉はスーツのポケットからシガレットケースを取り出すと、慣れた仕草で一本取り出した。
「彼、すごく優しいでしょ? きみのこと、本当の子供みたいにかわいがってるからね」
「……光栄です」
 光栄です、か。道哉は環のセリフを繰り返すと、ゆったりとした仕草で火をつけ、唇をすぼめて煙を吐いた。
「あの人は寂しいんだよ。環、寂しいってわかる?」
「わかる……と思います。前のマスターが教えてくれました」
「そっか。あの時代おくれのだだっ広い屋敷でね。奥さんも出ていっちゃったし、一人っきりでね。寂しいって言わない人だから、よけいにね」
 墓地の柵に背中をもたせかけるとスーツに錆の汚れがついたが、道哉は気にしないようだった。
「おれがその孤独を埋めてやりたい、って思ったこともあったけど、やっぱり誰でもいいってわけにはいかなかったらしくてね」
 道哉は環の方を向いた。顔は笑っていたが、目は真剣だった。
「きみにあの人を愛してやってほしいんだ」
「ぼくは……」
 環は驚いてかぶりを振った。「ぼくにはできません。ぼくは……」
「きみの欠陥のことなら聞いたよ。でもそれって変じゃないか。おれはロボットの専門家ではないけれど、愛は気持ちだよ、モノじゃない。涙が出ない、セックス機能がないって言うんならわかる。でも具体的に『愛』って名前のチップやプログラムがあるわけじゃないんだろ。泣いたり笑ったり、怒ったりもできるのに、どうして愛だけ欠けてるの? 愛は喜びに似ているし、憎しみとも紙一重だ。それだけ他の感情から綺麗に切り離して欠落させるなんて、どう考えても不可能だ」
「それは、それは……」
 環の声は震えていた。
「それは、ぼくを造った人がそうだったからです。ぼくをプログラムし、教育したあの方にそれが欠けていたからです。データもないのに、教えられてもいないのに、ぼくに愛することがわかるはずはありません」
「おれにはきみが雅裕さんを慕っているように見える」
「お慕いしています。尊敬しています」
「じゃあ、それが愛ではないのはなぜ?」
「ぼくの……」
 白い小さな手が上がり、胸の前で握り締められた。
「ぼくの中にはそれがない。わかるのはそれだけです。『愛』という言葉を聞くたびにぼくはプログラムを走らせ、該当のデータを探す。でもレスポンスはない。そこは空洞で、ぽっかりと空いています。
 ぼくが孤独を感じるのはそのときです。ぼくにはあるべきものがない。寂しい、という気持ちがわかるのはだからです」
 道哉は、その言葉で、渡部幹彦がどうやって孤独をまぎらわせてきたのかが、わかったような気がした。なぜ環を作り、二人寄り添うようにして暮らしてきたのか。
 環は幹彦の執念ともいうべき暗示にがんじがらめにされている、と雅裕は言っていた。
 それを呪いと呼ぶのは簡単だが、どうしても憎む気にはなれない、とも。
『幹彦さんと同じだから、環はそれでいいんだそうだ』
 叔父はそう言って、寂しそうな笑みを浮かべていた。
『きっとわたしにはどうしてやることもできない』
 専門家が七年もかけてインプットしたことを、自分のような素人が取り除いてやることはきっとできないだろう、と。
「おれは、きみにあの人を愛してもらいたかったんだよ。それは、無理なの?」
 環ははげしく首を横に振った。華奢な首がもぎとれてしまうのではないかと思うほど、強く。
「一生懸命お仕えします。それで、それで――お許しください」

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