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きつね



 浅草田原町の路地を入ると、砂の上に色のついた石を並べて遊んでいる子供がひとりいるだけだった。
 おかっぱ頭を揺らしながら、聞いたことのない唄を歌っている。扱きの帯が解けて地についているのにも気付かないのか、しゃがみ込んで指で小石を弾いていた。

 おかぁにみっつ、おまえにひとつ、おとぅがおらんでねむれない……

 男が傍を通り過ぎると、黙って頭を上げたが、すぐに興味を無くして遊びに没頭し始めた。

 あにさがみっつ、おまえにふたつ、きつねのかみさまわらってないた……

 男は戸の前に立つと、かすれた声で名前を呼んだ。
「居るぜ」
 寝転がって読本を捲っていた栄次は、何時までたっても入って来る気配がないので、立って下りていった。
 用心深く戸から体をずらして聞く。
「誰だ」
「おれだ」
「お前……」
 驚いて戸を引き開ける。
「よくここがわかったな」
「茶屋の娘に聞いた……」
 宗三郎は栄次の肩越しに部屋の中を気にして言った。
「ひとりだ、入れよ」
 宗三郎がぎこちなく四畳半に上がり込むと、栄次はぴしゃりと戸を閉めた。薄暗いじめじめした部屋には呆れるほど何もない。ささくれた畳の上に、煎餅布団と紙の破れた行灯、あとは空の丼がひとつに手垢のついた本が散らばっているだけだった。
「珍しいな、お前がおれのところに来るなんて」
 宗三郎は同心のままの姿をしていた。他人の目につくことを嫌がる普段の彼らしくないことだ。
 栄次は立ったまま、軽く頤を持ち上げた。
「やつれたな……どうした」
 言われて充血した目を上げた。
「江都さんが家に戻ってない……」
 力なく栄次の指をはらう。
「もう八日も………」

 
 
 がっくりと腰を落とした宗三郎の前に、栄次は膝を立てて座った。
「おしま様が弱って、もう見ていられない。だけどおれ達がいくら心当たりを探しても、何処にもいないんだ」
「女のところは?」
「わからない……でも特定の人はいなかったんじゃないかと思う。子供が出来てからはおれ達に付き合って遊ぶこともなくなったし……少なくともおれは知らない」
「それでなくとも武士が家を空けるとは只事じゃねえな」
 栄次は考えこむと、ぼりぼりと頭を掻いた。
「旦那のことだ、敵も多いだろう。ひょっとして―――――そんな顔をすんな、当然あり得る事だろうがよ」
「わかってる。だけど江都さんらしい死体は今のところ見つかってないんだ」
「なりとか髷は変えられたかもしんねぇぜ、町人の死骸も当たったかい」
「ああ……ここ数日の、年恰好の合う男の死人は全部おれが直に見た」
「ふーん……」
 栄次は疲れ切った宗三郎の姿をじろじろと眺めた。長い間外を歩き廻ったのか、黒い足袋が埃塗れである。
「それで―――?」
 宗三郎はうつむく。
「それと、お前がわざわざおれを訪ねて来たのと、どういう関係があるのかおれにゃわかんねえなぁ」
 又手を伸ばすと、煩さそうに払われた。
「そんななりでよ、人目も気にせず、え、一体どうしたい」
「お前の……」
 顔を伏せたまま、聞き取れない程の声で切り出す。
「おれ達がいくら探しても見つからなくて……もう諦めろなんて言うし……まともな手段じゃ無理なんだ。その点、お前なら……お前なら、いつも何処かから話を聞き込んでくるし、何とか……出来るんじゃないか、って……」
 言い難そうな様子を可笑し気に見やった。
「おれに、江都の旦那を探す手伝いをしろと?」
 こくりと頷いた。
「やなこった」
 思わず頭を上げる。
「おれが? 何で? そりゃ江都の旦那は知らない顔じゃねぇが、何の義理もないね。どっちかって言うと、前から気に入らねえ面だったよ」
「栄次!」
「何だよ」
「栄次……」
 宗三郎は組んでいた腕を解いて、がくりと前についた。「栄次……」
「何だ」
「おれが……栄……おれが頼んでも……?」
 縋る様な目を見返して、栄次はふ、と笑った。
「お前が? お前がおれに頼むって?」
 手の甲で頬に触れた。今度は払われなかった。
「いいだろう、お前の頼みって言うんなら、聞いてやるさ。江都の為に恥も外聞もなくおれを探す様な真似までして、頭を下げるようなお前の為ならな……」
 自嘲気に顔を歪めたがそれはすぐに消え、代わりにふてぶてしいものへと変わった。
「おれは他人の為に骨を折ったことはないぜ」
「わかってる……金でも何でも、何とか都合するから」
「金ね……」
 栄次はついと立って宗三郎から離れた。
「別にいらねえな……。金の無えお前から絞り取ったって面白くも何とも無えわな。そんなもんよりお前にゃもっと払い甲斐のあるもんがあるだろうが」
 宗三郎の首にうっすらと赤みがさした。栄次はごろりと畳に横になった。
「来いよ」
「………」
「何だよ、来る前からわかってたんじゃねぇのか?」
 宗三郎は暫く足元のささくれを見つめていたが、やがて意を決して立ち上がった。
 黙って羽織を脱ぎ、十手と刀を抜いてその上に置く。
「へえ……雨でも降りやがるかよ」
 側に膝をついた宗三郎の片手を掴んだ。
「わかってんのか? こんな貧乏長屋、壁なんざ筒抜けだ。右隣の千蔵は助平野郎で、職もなくふらふらしてっから、ほれ、そこの穴から覗きやがるかもしんねぇぜ」
 宗三郎は軽く唇を噛んだが、答えた。
「…いい……」
「……そうかい、そんなら遠慮はしねぇぜ」
 栄次はむっとした様に言うと、捕らえた手を引いて手荒く相手の体を横倒しにした。
「う……っ」
 眉をしかめるのへ、馬乗りになる。乱暴に顎を抑えて舌を差し込んだ。
「うっ…う……」
「何でい、ちっとは馴れたところを見せろよ、面白くねえ」
 詰られて、おずおずと腕を伸ばす。栄次の首に巻いて、自分から顔を近づけた。
「………」
 拙い接吻を繰り返す。溜め息をついて離すと、顔色を伺う様に相手の顔を見た。
 その目を見返しながら栄次が帯に手をかけると、僅かに腰を浮かせる。
 栄次ははだけた胸に視線を落とすと、暫く考え込んでから、いきなり突き飛ばす様にして宗三郎の上から退いた。
「栄……?」
「上に乗れ」
 呆けたようにこちらを見ていた宗三郎の顔が、意味をさとってさすがに色を失った。

 
 
「う、う……!」
 着物を引きずったまま男の上にしゃがみこんだ体ががくがくと揺れた。膝をつくことを許されないため、長時間体の重さを支えているふくらはぎがぶるぶると震えている。
 彼は未だその身に男のものを呑みこめないでいた。すでに栄次の手を借りて、体はほどよく開かれているのだが、宗三郎には腰を下ろすというその行為自体がひどく恐ろしかった。
 後ろをいじられて喘ぎながら、男のものを手で育て、はしたなく体を跨ぎ、慣れた場所にそれをあてがうまでは、ためらいつつもなんとかできた。
 だがそれ以上がどうしてもできない。
 今まで何度もされてきたことが、自らの意志で行うとなると、とてつもなく深い意味を持っているかのように思えた。
 昼は日の下でご政道を守る立場にありながら、夜は男に足を開き、尻を貫かれる悦びを知ってしまった。どん底まで落ちたと思っていたのに、まだ自分の知らない闇が足元に口を開いているのだ。
 栄次はどこまで自分を汚そうとするのか。いったいどこまで連れていこうと言うのだろう。
 宗三郎は唇を噛んですすり泣いた。
「栄次……栄次、できない…」
「できるさ」
 冷たい声がする。
 玉のような汗を浮かべ、固く目を閉じた白い顔を、仰向けになった情人が食い入るように見つめているのを、宗三郎は知らなかった。江都の為に普段なら考えられない行為まで許す青年の姿を前にして、その目に常よりも暗い炎が燃えていることも。
 だが実のところ、すでに宗三郎の頭から、江都のことは消え失せていた。考えられるのはただ、いつもとは逆に自分が組み敷いた形になっている、男の引き締まった体だけ。尻の間に触れる熱いそのものだけだった。
 それがどんなふうに自分を鳴かせるか十分に知っているだけに、わずかに腰を落とすだけで――自分の気持ち一つでそれがたやすく手に入るという状況はいっそうおぞましく――同時に、被虐的な悦びを宗三郎にもたらした。その証拠に、彼の股間のものは先ほどから頭をもたげていた。
「えい…えいじ、助けてくれ、こわい――ああっ」
 男の腹の上に置き、つりあいを取っていた片手が不意に乱暴に掴まれ、揺すられて、宗三郎の体はわずかに後ろに傾いた。
「ああっ、やめろっ、やめてくれっ」
「膝をつくんじゃねぇっ」
 思わず悲鳴をあげたところへ、鋭い叱責が飛ぶ。
 ずるずると自分を犯していく灼熱の塊から逃げるように、宗三郎は天井を仰いで喘ぐように大きく口を開けた。

 
 
 外の井戸で小さな盥に水を汲んでもどってきた栄次は、先刻畳の上にくずれ伏した宗三郎が、そのままの姿勢で眠ってしまっているのに気づいた。何度も気をやらされたせいもあろうが、毎日江都の手がかりを捜し歩いて、疲れがたまりきっていたのだろう。
 髷は崩れ、汗と涙で汚れた頬に、乱れた髪が数本張りついている。
 着物もみじめなありさまで、胸も腹も脚もほとんど剥き出しになっていた。
 栄次は手ぬぐいを濡らし、軽くしぼると、その汚れた体を拭ってやった。いつになく丁寧な仕草なのは、手酷く扱ってしまったという自覚があるからだろうか。
 ふと見ると、畳でこすれた膝頭が赤くなっていた。
 両手を掴まれ、足の裏だけでは重みを支えられなくなった宗三郎は、結局膝をついて、泣きながら体を揺すっていた。
 そのすりむけた傷を指先でそっとたどり、栄次は自嘲的とも言える苦笑いを浮かべた。

 

 
「栄兄ぃ、こいつでさ」
 栄次は突き出された男の顔を見て、おやと眉を上げた。
「おめぇ、仁助じゃねえか」
「え……栄次…!」
「兄ぃ、こいつを知ってるんですかい?」
「ああ、お前はもういいよ、帰ってくんな」
 栄次は片手を振った。
「だけど、大丈夫ですかい、この野郎、ちっとは知れた悪党で、卑怯な真似も平気でしやす」
「ふん、承知してるから心配すんな」
「そうですか、そいじゃ、おれはこれで……」
「ああ、助かったぜ。恩に着らぁ」
 男は二人を残して土手を駈け上がる。足音が聞こえなくなると、辺りは人影もなくひっそりと、下を流れる川の水音だけとなった。
「さてと、仁助。おめぇは確か江戸を出たんじゃなかったのかな」
「栄次、頼む、見逃してくれ」
「ふん」
 栄次はせせら笑って、
「おめぇ、八日前の晩、江都の旦那を見掛けたんだそうだな」
「あ…ああ」
「何処で」
「す、須田町」
「それで?」
「………」
「仁助!」
 栄次の両眼がぎらりと光って、男は震え上がった。
「ひ……人斬りを見たんだ、侍の」
「なに」
「おれの前を江都の野郎が歩いてた。ぎゃあって声がして、急いでそっちへ走っていったよ。そしたら男が倒れてて、角に影が見えたんだ。こっちを見たかもしんねぇ。江都が俺に番屋に知らせろって……へへ、おれの顔がわからなかったんだな」
 男は卑屈な笑いを浮かべた。
「続けろよ」
「そう言われても、この先はねぇ」
「へっ、てめぇがそのまま帰るような男かよ。後をつけたんだろうが」
「………」
「江都の旦那はどうしたんだ」
「……三人連れの後を追って…屋敷前で何かやり合うのが見えた。江都は十手を振り回してやがったけど、屋敷からも何人か出てきてすぐに連れ込まれちまったよ……」
「やられたのか」
「いや、当て身をくらっただけだと思う」
「その屋敷は何処だ」
 仁助は顔を背けた。
「てめぇ……さっさと言いやがれ」
 栄次が胸座を取ると、仁助は薄汚れた顔に小狡そうな笑みを浮かべている。
「おい、取り引きできる立場じゃねぇのはわかってんだろうな。おれがお前の戻ってきてる事を市に教えてみろ、八つ裂きじゃすまねぇぜ。裏切り者がどういう目にあうのか、知らねえ訳じゃあなかろうが」
「栄次……!」
「言え」
「番町の」
 仁助は唾を飲み込んだ。
「番町の久保……」

 

 
 久保邸の木戸が音もなく開いた。編笠を被った影が三つ、屋敷から出てくると足早にこちらへやって来る。
 宗三郎と栄次は慌てて身を隠した。
「やっとおでましか、今夜も駄目かと思ったぜ」
 二人が屋敷を張り続けて四日目である。
「神田に行くのではないらしいな」
「あそこじゃ江都の旦那に見られたんだ、二度とは同しところに行かねえんだろうよ」
 宗三郎が長屋を訪ねてから、三日で栄次は久保進之助の名を調べ上げてきた。
「跡継ぎが血の味を覚えちまったらしいのさ」
「四千二百石……大身だな」
「一月前、麦湯売りが切られたろう、それからこないだの浪人、どっちもこいつの仕業とおれは見たね」
「二つとも南町の扱いだったからな……」
「旦那はそいつを見ちまったんだろう、よしゃあいいのに屋敷までつけて咎めたところを逆に捕まっちまったのさ」
「進之助は江都さんをどうしたろう」
 宗三郎は何よりそれが気掛かりだった。
「さぁな。だけどそれらしいのが外へ運び出された様子は無ぇのさ。生きてるにしろ、死んでるにしろ、旦那の体はあの中ってことだ」
 相手が旗本ときては、八丁堀に捕縛の権限はない。犯行の後あとをつけ、入った屋敷を確かめておいて奉行に報告するしかないのである。江都もそのつもりだったのだろう、ただ運悪く見つかったか何か、口封じに屋敷内へ連れ込まれてしまった。下手に探る様な気配を見せれば、江都の命は僅かな可能性も消されてしまう。
 宗三郎はそれから毎晩、進之助が辻斬りに出るのを物影からじっと待ち続けた。栄次は文句を言いながらもそれに付き合っている。
「仕方無ぇな、乗りかかった船だ。ここまでやったからには旦那の無事な顔でも見なけりゃ腹が立つ」
 月明かりだけでは心細い様な暗闇だった。前を行く三人も提灯を下げていない。
「八幡様だ」
 栄次が囁く。進之助らは神社を通り過ぎると四谷の方に向かった。ここまで来ると、ちらほらと町家が混じっている。
「宗三郎!」
 ぼやりと前方に灯が見えた。
「そば屋の屋台だ!」
 『二八』の屋台を担いだ頬被りの老人の上に、進之助の刀が閃いた。
 見殺すわけにはいかなかった。
「待て!」
 宗三郎は走りながら怒鳴った。
 そば屋は逃げようとして屋台ごとひっくり返った。ボッと火がつく。
「待て…っ」
 三人は慌てて身を翻す。宗三郎は十手を抜いた。
「久保進之助だな」
 名を呼ばれてぎょっとした様に立ち止まると、瞬時にして宗三郎に刀を向けた。
「おのれいっ」
 進之助は編笠をむしり取った。
「いけませぬっ」
 一人が慌てて叫ぶ。
「構わぬ、生かして帰さぬ」
 進之助は唾を飛ばして答えた。燃える屋台に照らされてその顔は醜く歪み、血走った両眼はすでに常人のものではなかった。
 二人ももはや他に道は無しと見たか、太刀を抜いて切りかかってきた。
「おっと、てめぇの相手はこっちだ」
 今まで何処にいたのか、塀の上から栄次が侍の頭を目掛けて飛び下りた。後頭部を激しく蹴られて声も無く倒れる。
「うぬ」
 もう一人が向かってくるのを、栄次は落ちた刀を拾って軽く身構えた。
 進之助はそちらに目もくれなかった。狂人の目でぎらぎらと宗三郎を狙ってくる。唇からちろりと舌が覗いた。
 宗三郎はどっと冷や汗がわくのを感じた。今さら刀を抜く余裕はなかった。べとつく手で十手を握り直す。
 だッと相手が踏み込んできた。ギン、と音がして右手が痺れた。力を振り絞って何とかそれを跳ね返す。
「はぁ、はぁ」
 足がもつれた。凄い力だった。
 佐垣の家に養子に来てから、江都に鍛えられて武術は一通り身につけた。浪人者の真剣を相手に十手で立ち向かわねばならなかった事もある。
 だが、進之助のそれは、精神の異常さが普通でない力を与えていた。
 殺られるかもしれない。
 不安が宗三郎の体に隙を生じた。あっと思った時には十手が弾き飛ばされていた。
「不味い!」
 栄次は叫ぶと、腰を抜かしている老爺の首から手拭いを抜き取り、じゃぶりと水を張った桶に突っ込んだ。宗三郎の上に刀を振り被ったところへ、力一杯投げつける。
「ぐ…っ…」
 びしり、と濡れた手拭いが進之助の首に巻きついた。思わず後ずさるのを、宗三郎は十手を拾って足下に飛び込んだ。思いきり足を払って倒れた腹に二三度打ち込む。
 進之助は低く呻くとがくりと動かなくなった。
「………」
 宗三郎は目を閉じて荒い息をついた。
 まさか進之助に手を出す羽目になるとは思わなかった。
 栄次は近寄ってくると首の手拭いを外して、脅えるそば屋に差し出した。
「すまねえが、どっかで灯りを都合してきてくんねえか」
「へ、へえ」
 老人はあたふたと立ち上がり、屁放腰で駈け出した。
「頼りねえ爺いだが、証人にはなってくれるだろう」
 ぶすぶすと燻る屋台の残骸にざばりと桶の水をかけた。
「栄……」
「こいつらどれも死んじゃいねぇよ。心配すんな、お前がどうこうという事は無いさ、相手は旗本でも狂人だ。家来の方が正気に戻ったら連れて帰るだろう。内心屋敷でも手を焼いていたんじゃあねぇかな」
「栄次……お前は?」
「おれはさっさと退散すらあ。面倒は御免だからよ」
 そう言うと背を向けてさっさと歩き出した。
「ま、待ってくれ」
 宗三郎は思わず引き止める。
「まだ江都さんが……」
 栄次は足を止めて振り返った。
「そんなことまでおれに出来るか。こうなりゃ久保家も白は切れんさ。江都の旦那が無事だったら、よろしく言ってくれ」
「栄、」
「上手くいったら訪ねて来いよ。また楽しませてくれんだろ」
 頬に血を上らせた宗三郎は闇の中に取り残された。間もなく提灯の明かりとともに、ざわざわと人の気配か近づいてきた。



 
 おかぁにみっつ、おまえにひとつ……

 子供が小声で唄っている。
 宗三郎は足を止めて並んだ小石を見下ろした。少女は気にも留めずに石を右から左へと動かした。

 おとぅがおらんでねむれない……

 江都は無事に久保家から助け出された。かなり憔悴していたが、わずかな食事だけは与えられていたらしい。江都が役人ということもあって始末に困ったのだろう。
 今頃はおしまに看取られて、養生しているに違いない。栄次の言った通り、幕臣に手を出した江都も宗三郎もどさくさに咎めを逃れることが出来た。
 眠れないのは久保家の方だろう、と宗三郎は思った。
 進之助は切腹したが、悪くすると四千二百石はお取り潰しになるかもしれなかった。何とか養子を取ってそれだけは逃れたいと、主従揃って祈り暮らしていることだろう。
 宗三郎は戸の前に立った。手を伸ばしかけたが躊躇って下ろす。もう一度同じことを繰り返して苛々と唇を噛んだ。
 今日は白足袋に大小の刀を落とし、十手は抜いて袱紗に包み懐に入れてある。
 神経質に唇を湿らせると、戸口に顔を寄せて栄次の名を呼んだ。
 コトリとも音がしない。
「栄……?」
「いねえよ」
 振り返ると、少女が立ってこちらを見ていた。
「そこの人はもういねえよ」
 宗三郎は戸を開けて中を見た。煎餅布団に行灯、丼が転がっている。ただ読本だけがなかった。

 
 
 きつねのかみさまわらってないた……

 再び始まった子供の唄を聞きながら、破れた障子戸の前に立ちつくす宗三郎は、ほっとしつつもあてがはずれたような、なんだかきつねに化かされた気分になった。

【終】

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別れて終わり?と思われた方がいたようなので、言い訳を…。
別に別れたとかではないです。単にまた栄次の居所がつかめなくなっただけというか。 ちゃんと五話以降も更新が続いていれば、ご心配いただくようなこともなかったのですが…すみません。 縁は切れずにこの調子でだらだらと続く、そういう2人です。