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のぞき河童


(一)


 暦の上ではもうすっかり秋だというのに、今日のこの蒸し暑さはどうだ。人々の体が涼しさに慣れた頃を見計らって、突然暑さがぶり返す。
 大野屋清兵衛は商家の軒の下で立ち止まり、懐から取り出した手拭いで額の汗を手早く拭った。手拭いが汚れるのは埃のせいだろうか。
 常日頃、精力的に大店を切り回す男盛りの清兵衛の顔は、不眠続きと暑さによる疲労で別人のようにやつれていた。だがここ数日めっきり増えた皺は、ほとんどが心労によるものだ。
 清兵衛は己の娘、あきの後をつけていた。
 幼い頃から愛らしい顔だちをした、自慢の一人娘。年頃になってからは縁談も降るようで、その一つが今にもまとまろうとしている。清兵衛自身は、美貌と持参金を武器に玉の輿に乗せる野心がないでもなかったが、高望みをして苦労をさせるよりは、と妻の加代が母親らしい気遣いを見せた。
 その加代がなんでもない夫婦の会話の中でふと、あきへ小遣いを渡している事実をもらしたのは、十日ほど前のことだった。
「一緒にお琴を習っていたお友達のお家が苦しいとかで、少しでも助けてあげたいからと……。でもそのお友達の名前は可哀相だからと何としても言いませんの」
 清兵衛の煙管に伸ばした手が止まった。
「お前、あきにいくら渡したんだ」
 夫の顔色に気づいた加代は慌てた。
「ごめんなさい、心配をかけるから、あなたには内緒にしてくれと……」
「ちがう。わしも同じ話を聞かされて、しばらく前からお前に内緒であきに金を遣っていた……」
 夫婦は顔を見合わせた。
 結局、あきに渡した金額は、二人合わせて二両近くにも上った。尋常な額ではない。
 だが、その時の清兵衛は、まだあきを頭から疑っていたわけではなかった。
 その疑惑がはっきりと形になったのは、人をやって尋ねた琴の師匠から、そのようなあきの友人には心当たりがないこと、またあき自身が最近稽古を休んでいる事実を聞かされた時だった。
 ようやく事態に気づいた清兵衛は、あき付きの女中を厳しく問い詰めた。
 女中は意外なほどあっさりと、あきに男がいることを吐いた。
 琴の稽古や買い物に行くと見せかけ、女中を途中で待たせておいて、男に会いにいくのだという。あきは親から貰った金をその男に貢いでいるようだった。
「まさか、あの娘(こ)が、そんな……」
 横で話を聞いていた加代が泣き崩れた。
 激しく叱責された女中は女主人と同じように泣きじゃくりながら、相手がどんな男なのか、どこで会うのかは全く知らないと言い張った。ただ、一つ心当たりがあると言う。
「一月ほど前、隣町の小間物屋さんで簪を選びなすってたとき、ふと姿が見えなくなって、慌てたことがあったんです。そこらを探し回っていたら、一刻ほどしてまたふらりと戻ってらして……。旦那様には心配をかけるから黙っているようにとおっしゃって小遣いをくれました。こっちは気が気じゃなかったのに、けろりとなさって……。あれからです、お嬢さんの様子が変わられたのは」
 あきが男と知り合ったとすればその時か。
 事が事だけに、娘の体面を慮って、清兵衛夫婦は誰にも相談することができなかった。二人であれこれ話し合った結果、結局清兵衛自身があきに内緒で男と話をつける、ということになった。相手がどんな男かわからないので加代は不安がったが、清兵衛は娘のためなら怖くはないと思った。
 手切れ金も用意した。とりあえず十両。話がこじれるようなら、娘のために、五十が百でも出すつもりはあった。
 小判の重みを懐に確かめ、清兵衛は軒下を出た。
 おちくぼんだ眼窩の奥で、充血した目がきょろきょろと動く。地面からたちのぼる熱気でゆらぐ町並みの向こうに、あきの後ろ姿が見えた。
 娘のあとをつけ、相手の居所を確かめたら、あきが帰った後で男と会うつもりだった。
 あきの尻が誘うように左右に揺れる。
 あの娘(こ)が、男を知っているのか――。
 清兵衛は再び手拭いで汗を拭った。不意に老いを感じた。

 
(二)


「どっかの大旦那が匕首で刺されたって?」
 見習い同心の佐垣宗三郎(さがきそうざぶろう)を引き連れて自身番に姿を現した北町の定廻り同心、江都亨介(えづこうすけ)は、辺りをはばからぬ大声を出した。
「へえ、堺町の足袋屋、大野屋のご主人で。刺されたと言っても二の腕を掠めただけで、多少血は流れておりやすが、大した怪我ではございません」
 番人が耳打ちでもするように、ひそひそと小声で告げた。
「そりゃあ、何よりだな。で、あの娘は誰だ」
 後ろに控えていた宗三郎は、首を伸ばして、自身番の入口を塞ぐように立った江都の脇から中を覗き込んだ。
 奥に、背中を丸めて片腕を押さえている恰幅のいい男が一人、身なりからいって、これが大野屋だろう。江都の言葉通り、彼に背を向けるようにして、若い娘が壁を向いている。裕福な商家の娘らしい、華やかな着物がこの場にそぐわない。
「あれは、大野屋のお嬢さんで」
「父娘かい。何やら険悪な雰囲気だが、まさか娘が刺したんじゃあるまいな」
 険悪な雰囲気に気づきつつずけずけと言う江都に、宗三郎は後ろではらはらしたが、その磊落(らいらく)な物言いが張り詰めたその場の空気を破ったのか、突然清兵衛ががばっと畳に両手をついた。
「とんでもありません。娘は悪い男にたぶらかされたので。私を刺したのもその男でございます」
「ちがいます!」
 それまでそっぽを向いていた娘が、宗三郎たちの方を向いて叫ぶように言った。
「あの人は、悪い人なんかじゃありません。おっ父(と)さんの怪我だって、おっ父さんの方が先に手を出したんです!」
「あき!」
「おっ父さんが突然現れて、あの人に殴りかかっていったんです。それで、あの人は仕方なく……!」
「あき、お前、なんてことを」
「おっ父さんが悪いんだ、おっ父さんがあの人との仲を……」
「おいおい」
 江都は、あきを宥めるように言った。
「お前、怪我をした父親に向かってそれはないだろう」
「なにが、父親なもんか! 娘の幸せの邪魔をしておいて!」
 あきは突然、体ごとぶつかるように、清兵衛にむしゃぶりついた。両腕で相手の顔と言わず、体と言わず、打ちすえる。
「これでもう二度とあの人に会えなくなったら、おっ父さんのせいなんだ!」
「こら、よせ」
 慌てて番人が割って入る。
 清兵衛は血で汚れた両腕を上げ、弱々しく娘の攻撃を防いだ。その懐から、小判がじゃらじゃらと畳の上にこぼれ落ちる。だが大野屋の父娘はそれに気をとめる様子もなかった。
「おっ父さんの馬鹿! 馬鹿!」
 流石の江都も呆然と、夜叉のような娘の顔を眺めていた。

 
「いやはや、凄まじかったな」
 興奮する父娘をなだめ、なんとか簡単な取り調べを終えた江都と宗三郎は、そのまま奉行所へ戻ることにして自身番を後にした。まだ日が落ちるには早いが、それでも日中の日差しは幾分か弱まり、道行く人々の顔も和らいで見える。
「人前で娘があのように父親を罵るとは、まことに驚きでした」
「それもこれも恋のなせる業か。恐ろしいもんだなぁ」
 大して恐ろしくもなさそうに言ってのけた江都は、呑気な口調とは裏腹の鋭い視線を宗三郎に寄越した。
「あいつが、出たな」
「ええ、河童の野郎ですね。父親が右肩の彫り物に気づいたのは幸運でした」
 江都の歩調に合わせる宗三郎は汗で額を光らせながら、頷いた。
 この夏から、江戸の町では小事件が相次いだ。
 堺町の商家で、女中が店の金をくすねたのを咎められたのが始まりだった。主人が厳しく問い正すと、どうやら男に渡そうとした事が分かり、それはそれで女を家元に返して終わった。
 だが、日をおいて二月ばかりの間に似た様な事件が相次いだ。金を持ち出すのは若い娘だったり、年増女だったり、金額も一朱から十両まで様々だったが、どうやら同じ男に貢いでいるのではないか、ということになった。女達はどんなに責められてもなだめられても、がんとして男の名を明かさなかったのだ。
 ただ、どうやら男の肩に青い河童の彫り物があるらしいという噂だけが、宗三郎たちのもとに届いていた。
「女たちがかばうせいで、これまでは今いち調べが進まなかったが……。河童が金を盗んだわけでもなし、女たちが自分がやったのだと言やぁ、それまでだからな。けど、刃傷沙汰を起こしたとあっちゃあ、このまま放ってはおけめぇ」
「そうでなくても素人女を食い物にするとは、男の風上にもおけぬ奴です」
 宗三郎は憤然とした様子で言った。
「そんな男をどうしてああも庇うのか……。私にはどうも女たちの考えていることがわかりません」
「だからそれが惚れるってぇ奴だろう」
「金をせびるような、悪い男だとわかっていてもですか」
 おいおい、と江都が呆れたような声を出した。
「江戸の町を預かろうっていう八丁堀が、そんな世間知らずのことを言ってどうする。悪い相手と知ったって、離れられないってぇ気持ちが、男にも女にもあるものさ。お前もちったぁ考えてみりゃあ、わかるだろうが」
 まさか心当たりを考えろと言われたわけではないだろうが、思い当たった宗三郎は黙り込んでしまった。
 江都が自分と栄次の間柄を知るはずがない。
 だが時折、ふと気づくとこちらに向けられている江都の鋭い視線が、何もかもを見透かしているようで、後ろ暗いところのある宗三郎は、それだけで落ちつかなくなった。
 兄のように慕い、信頼する江都に隠れて、淫らな行為に溺れている自分が、いたたまれないほど恥ずかしい。
 無理強いするのが相手とはいえ、自分がそれを甘んじて受け入れていることを、生真面目な宗三郎ははっきりと意識していた。
 だからこそ自分が許せない。どうにかしなければと思いつつ、ずるずると引きずられていく自分がわからない。
 同心というお役目に就きながら、相変わらずどろどろした人の心の闇とはまるで無縁そうな、青年の白い横顔に、苦悩の影が射す。
 だがそんな宗三郎には気づかぬ様子で、江都は通りすがりの女の流し目を軽く受け流しながら、大野屋も災難だったな、と独りごちた。
「娘の後を水茶屋までつけていって、始めは隣り部屋でおとなしく待ってたらしいが、あんまりあの声が派手なんで、たまらなくなって飛び込んだとさ」
 自分の娘が腰振ってるところァ、父親にとっちゃあありがたい光景じゃなかったろうよ……。

 
(三)


「栄……?」
 人気の無い寂れた小さな稲荷神社に、宗三郎は忙しなく目を走らせた。季節はすっかり移り終え、爽やかな風が微かに頬をなぶっていったが、急いで来たせいで、宗三郎の顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「栄次! いないのか、栄次!」
 苛々と境内の裏手にまわると、
「おう、ここだここだ」
 荒れ放題の植え込みの影から、目当ての相手が手招きをしていた。
 宗三郎と同じようなやや小柄で細身の体は、本人がその気になればどんな人込みにも紛れ込める、平凡な容姿をしており、紺と藍の三本格子の着物をすっきりと着こなした今も、ちょっと遊び好きの職人か何かに見えないでもない。が、僅かにつり上がった目尻と、酷薄さを帯びた薄い唇は、嫌でも馴染んだ、傲慢な情人のものだった。
「そんなところで何をしてるんだ」
「いいからこっちへ来い」
 大人しくそちらへ近づきながら、宗三郎は神経質そうに眉を寄せた。
「一体何の用だ、こんな所に呼び出して……おれが今忙しいのが分かってるのか」
「ふん、あの河童だろうが」
「そうだ、江都さんの目を盗んで出て来たんだ。用なら早く済ませてくれ」
「流石の江都の旦那もだいぶ手を焼いているようだな。河童の手掛かりはとんと出て来ねぇ。女たちは相変わらず口を噤んでる。短気な旦那のことだ、並大抵の機嫌じゃあるめぇ」
「お前が急な件だというから……」
「大急ぎで来てくれたわけか、有り難いねぇ」
 だって来なければお前が、と言いかけた言葉を宗三郎は呑み込んだ。来なければどうする、と言われたわけではない。そんな風に脅されたことは実際には一度もなかった。
 脅されたように感じるのは、自分の気持ちなのだ。
 黙り込んでいると、突然、栄次にずいと手を引かれ、宗三郎は植え込みに引きずり込まれた。
「なにを……」
 慌てて宗三郎が立ち上がろうとすると、シッとその口を掌が覆う。
「静かにしてろ、そろそろだ」
「何が……」
「河童さ」
「なにっ」
 宗三郎は栄次の腕の中で振り向いた。
「河童にとっちゃあ、江戸の闇が川。水の中を泳ぎ回る河童をとっつかめえるのは並大抵のことじゃねぇ。陸に誘い出すのが、手さ」
「誘い出す……」
「そうさ、エサを使ってな」
「エサ、とはなんだ」
「金と女だ。奴の好物は決まってんだろう。――ほら、来た」
 宗三郎が慌てて首を回すと、表の方から辺りを窺う様にして一人の女が姿を現した。見るからに粋筋の、二十七、八と見える大年増だ。
「どうだ、佳い女だろうが。あれがエサさ」
「一体、どういう女だ」
 声を落とした栄次にならって、宗三郎もひそひそ声で尋ねた。
 女はきょろきょろと周囲を見回してはいるが、植え込みの中の二人には気づいていないようだ。
「名はお紋。もとは芸者だが、今はある大店の好色爺いのおめかだ。あの体を見ろよ、あんなのを毎日抱っこできたら、たまらねぇだろうな」
「それが、河童とどういう関係があるのだ」
 厭らしい栄次の口調に眉をひそめて怒ったように言う。
「男を知り尽くしたお紋姐さんまで、引っ掛けちまうんだから、河童の腕も全く大したもんだ」
「なに、あの女も河童にいれあげた一人か。そんな話は聞いてないぞ。一体どこの女だ、もっと詳しく――」
「それは言えねぇ」
「おい、栄次」
「河童をとっつかめえるのに協力してもいいが、条件が二つある。一つは俺がいいと言うまで手を出さないこと、もう一つはお紋には構わねぇことだ」
「なんだと、それは――」
「こんな機会は二度とねぇぜ。勿論、お紋は町方に協力するつもりはねぇとさ。俺とは昔馴染みの縁があってね。さあ、どうする。河童の首をあげて、江都の旦那の元に意気揚々と帰りたくはねぇのかい」
 宗三郎はしばらく唇を噛んで考えていたが、やがてしぶしぶと頷いた。
「わかった、だが、本当に奴なんだろうな……」
「任せておけって。俺が可愛いお前に嘘をつくわけがないだろう」
「よせ、そういう言い方は……」
 身を捩った宗三郎の腕を、栄次がぎゅっと掴んだ。
「来た」
 宗三郎は慌てて前を向いた。
 頬被りをした小柄な男が姿を見せ、同時にお紋の顔がぱっと顔を輝かせるのが、ここからでもわかった。
「あんた……!」
 お紋が夢中ですがりつく。
「金、持ってきたか」
「あんまりないけど……旦那がけちでさ、五両ばかし……」
「五両か、まあ無えよりいいさ。すまんな、お紋。助かるぜ」
 男は女の差し出した金を無造作に取って懐に入れた。
 宗三郎は目を凝らして男の顔を見定めようとした。
「あれが河童か……? 何だかぱっとしない男のようだが……」
 首をひねると、栄次はにやにやと笑った。
「もっと美男だと思ったか? 違うな、役者顔じゃあ生娘は騙せても、世間擦れした年増女は引っ掛かんねえ。これだけ大勢の女を食い物に出来るなあ、アレよ」
「あれ……」
「奴にかかっちゃあ、どんな女も床で泣き喚くそうだ」
 露骨な言栄に宗三郎は思わず黙り込む。
「ま、信じられねぇってんなら見てりゃ分かるさ。そのうち肩の河童様を拝ましてくれるだろうからさ」
 お紋は金を渡してしまうと、愛しそうに男の口にむしゃぶりついた。
「ああ、あんた……」
 宗三郎ははっ、と気づいたように背後を振り向いた。
「まさかお前、俺にここで覗き見をさせるつもりなのか、奴らの――」
「役得だろ。楽しませてもらおうぜ」
「冗談じゃない、何を馬鹿な――」
「シイッ!」
 栄次は背後から宗三郎の喉を捕らえた。僅かに力を込め、脅すように囁く。
「約束を忘れたのか。俺がいいというまで手出しはしねぇ。そう言ったろう」
「わ、わかった」
 ぎごちない手で喉元の手を外そうとする。
 堅気の仮面を被った栄次が、ふと裏の顔を覗かせる時がある。宗三郎は、そんな時手も足も出なくなってしまう自分をはがゆく思った。
『悪い男と知りつつ――』
 不意に江都の言栄が脳裏に浮かび、ぎくりとする。
 違う、これはお役目のためだ。河童を捕まえるためなのだ。
「どうした? 痛かったか、ん?」
 固まってしまった宗三郎の喉元を、一変して猫なで声の栄次が擦ってくる。
「よせ……」
 植え込みの中のやり取りをよそに、境内のお紋は男の手を取って胸元へ導いた。
「あんた、ああ、会いたかった……」
「お紋、すまねえ。仕事が忙しくってよ……」
「いいのよそんなこと……それより、ねえ、吸って……」
 切なそうに胸を喘がす。
「お紋」
 男は乞われるままぽったりとした唇を吸ってやる。
「あんた、あんた、ああ……」
 二人はそのままもつれる様に地面に倒れ込んだ。
 裾が割れて、女の白い脚が剥き出しになる。その脂ののった太腿を、男の長い指がするりと這った。
「ああ……」
 女の息は早くも乱れ、上に乗った男はその上下する胸元を乱暴に開く。転げ出た乳房に口を寄せた。
 お紋の手が相手の首に蛇の様に巻きつく。
 宗三郎は居心地悪気に身じろぎした。口の中に溜まった唾液をそっと飲み込む。
 冷静になれと心を叱咤しても、目の前に展開するあさましい男女の姿に、若い体は反応を示し始めていた。
 それを、背後の栄次だけには気取られまいと体を離した時、下腹に滑り込む手にぎょっとなった。
「栄次……!」
「シッ」
 栄次は後ろから顔を寄せてくる。
「静かにしろよ。お前は河童を見張ってな」
 囁いて、今度は左手を衿元に忍ばせてきた。
「やめ……」
「シーッ」
 宗三郎は懸命に体を引き剥がそうとする。が、身動きすると周りの茂みがざわざわと音を立てるので、お紋たちに気付かれるのではないかと思うと、思い切った動作が出来ない。そのうち、熱くなり始めていた部分をしっかりと握られてしまった。
「あ…う……」
 慌てて唇を噛む。脚の間で上下する手に自分の右手を添え、宗三郎は軽く首を反らした。
 脚を開いて正座した形の宗三郎を、後ろから栄次がしっかりと抱え込んだ。
 右手の動きを休めずに、栄次は邪魔な脇差をそっと宗三郎の腰から抜き取る。背中を探って光る十手も引き抜いた。羽織の紐を解いて肩から滑り落とす。宗三郎はもう抗わずに目を閉じてため息をついている。
 栄次はうっすらと笑って意地悪く言った。
「目を開いてろよ、河童が見えねぇだろうが」
 かすれた視界にぼんやりと女の赤い腰巻きが映った。
 お紋のあげる声が遠く聞こえる。
 宗三郎は必死で目を凝らした。白い太腿がしっかりと男の腰を挟み込み、上下に激しく動いている。宗三郎はまた熱くなるのを感じながら、目線を男の肩へと移した。こちらに向けた右肩はうす汚れた縞の着物に覆われ、彫りものがあるかどうか見定めることが出来なかった。
 地面に転がっている彼女らに比べ、狭い茂みの中で動めく二人は全身が汗ばみ始めていた。七つをまわった頃か、夕暮れの境内には風が吹き始め、木々を渡ってざわざわと音がする。
 お紋と男は自分達の行為に夢中になっているし、少し位茂みが音を立てても風に紛れて何も気付かない様だった。
「ん……あ…?」
 宗三郎は急に離されて、不安気に頭を巡らした。
「あ、栄……! 無理……無理だ…!」
 栄次は前に両手をつかせて宗三郎のほっそりした腰に手をかけた。
「やめろ……」
「見ろ、奴の肩が見えるぜ!」
 思わず視線を前に戻した。
「ああ、あたし、あたし、よくって、あんた、ああ……!」
 お紋が叫んで男の肩に力を込めると、その手が引っ掻く様に滑って左肩が剥き出しになった。
 その肩はつるりと白く、彫りものは何処にも無かった。
「くそっ、ないぞ、栄次、お前……ああ…っ」
 宗三郎がかっとして詰ろうとした時には栄次は既に体を押し入れていた。
「う、う…う……っ」
 宗三郎は激しく首を振る。怒って爪を立てるのも構わず、栄次は再び前に指を伸ばして優しくあやし始めた。
「ふふ……慌てるない、よっく見ろよ……」
「ん……」
 遠くなりそうな気力を振り絞ってもう一度男の肩に目をやると、その何も無い肌に、ぼんやりと何かが浮かび上がってきた。
「あ……」
「どうだ、見えるか。そうよ、白粉彫りってやつさ。大野屋は奴が娘とやってる所に踏み込んだんで、見えたんだろう。風呂かなんかに入らない限り普段は見えねえから、まともに探したんじゃまず無理なのさ」
 青い色の河童は、もはやくっきりとその姿を現していた。男の肩に手をかけて、一緒に女の顔を覗き込んでいる。男の体が激しく動くたびに、河童は伸びたり縮んだり、まるで生きているかの様だった。
「奴は自分で覗き河童と呼んで彫り物を自慢していたそうだ。今までモノにした女の顔を、全部見てきたんだとさ……」
 栄次は言うと行為を再開した。
「うっ…う……う、」
 宗三郎はすぐにその化けものを見ていられなくなった。自分の内を擦り上げる熱が、体を冒し、頭を冒し、何も考えられなくなる。
 栄次に体を奪われるたび、自分は確実に何かを手放していく。
 正気か、理性か。
『悪い男と知りながら――』
 違う、恋ではない。これが恋ではあまりにも自分が情けない。
 これは病だ。栄次から伝染された毒がまわり、おれはいつかは死ぬのだ。
 だが、それでも構わないと思ってしまう今の自分が、宗三郎は哀れで、許せなかった。
 遠慮ないお紋の声が寂しい空き地に響き渡る。
 その声を聞きながら、宗三郎も激しく上りつめた。

 
(四)


 お紋は縁側で寝そべったまま、煙管をふかしていた。
「よう」
 不意に目の前に影が射したが、お紋は驚くでもなく、目を伏せたまま呟いた。
「栄ちゃんかい」
「旦那は帰ったのかい」
「ああ、さっきね」
 栄次は縁側に腰を下ろした。
「奴ぁ、江戸払いになりそうだ。奉行所には女共が押しかけてるそうだが」
「……あたしのことが知れたら、殺されるちまうね」
「姐さんのことは表には出ねぇ。約束させたから、安心してくんな」
 お紋は初めて顔を上げた。少しやつれてはいたが、それがまた女の色気に拍車をかけていた。
「誰だっけ――忘れたけど、お目当ての人の手柄にはなったのかい」
「まぁな。一つ借りさ」
 お紋は苦笑いして、首を振った。
「栄ちゃんのためじゃあないよ。あたしのためさ。あの男とは手を切りたかった。でも自分じゃできなくてね。お上の力を借りたようなもんさ」
 お紋は気だるげに起き上がり、手にしていた煙管を男に渡すと、煙草盆を引き寄せてやった。
「あん時は、最後まで邪魔しないでくれて、ありがとうね」
「お紋姐さんともあろう人が、夢中で首っ玉にしがみついてたな。噂にゃあ聞いていたが、そんなにいいもんかね」
「よかったねぇ」
 お紋は臆面もなく、言った。
 俯いて膝を引き寄せ、足の指の爪を調べる。
「あの人に抱かれていると、他のことはどうでも良くなっちまった。騙されたっていい、死んだっていいってね。わかるかい、栄ちゃん」
「わからねぇでも、ないな」
 栄次はぽっと煙を吐いた。
「ほんとに、あたし一人なら刺し違えて死んだって良かった。でもよくしてくれる旦那をこれ以上は裏切れなかったんだよ」
「お紋姐さんは強えなぁ」
「何が強いもんかね」
「いや、強え」
 栄次は空を見上げた。秋の空は高く澄み渡り、胸の隅に巣くうとろとろした甘い痛みとは無縁の、清々しい蒼さが広がっていた。
「俺にはもう、そんな風にきっぱり切れてやれるかどうか――」
 お紋は栄次の言葉など耳に届かぬ様子で、爪を弄りながら呟いた。
「もういっぺんでも、また会いたいねぇ――」

【終】

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