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蜜の視線



「加納、昨日教えたエロサイト行ってみた?」
 おれの隣に腰を下ろした梅原が、リュックからテキストを取り出しながら嬉しそうにたずねてきた。離れた席の女どもを気にして、一応声はひそめている。
「あー、見た見た、見たよ」
「すごかったろ、金髪ネーチャンの無修正」
「うーん、ちっとパスかなぁ」
 おれの言葉に、梅原は「なんでー」と、さも意外そうに目を丸くした。
「久々のヒットサイトだと思ったのになぁ。広告もそんなにうざくないし……」
「みんながお前と同じ趣味だと思うなよ。あれグロいよ。大股開きの上にわけのわかんないもんつっこんでてさ。それにおれどうもアッチの女のはだめみたい」
「そっかー、じゃあ今度は日本人サイトのいいやつ探しといてやるよ」
「もう、いいって……」
 おれはこれ見よがしにため息をついた。
 確かにインターネットを始めた頃はうれしがって海外のエロサイトをサーフィンしていたこともあったが、最近ではそれも飽きて、好きな映画とF1関係のページに入り浸っている。
 ネットに関してはおれより半年先輩の梅原には、メールソフトの設定や接続のしかたなんかを教えてもらってとても助かったのだが、いまだに毎日のように新しいエロサイトを発掘してきては「見ろ見ろ」とせっついてくるのには閉口だ。
 エロに興味がないと上品ぶる気はないが、おれには近所でレンタルできるアダルトビデオの方が、有料とはいえ、よほど性に合っていた。
「日本人のもいいのがあんだよ、アングラなんだけど、どっかの会員制のページの画像が流れてきたやつらしくてさぁ、モデルの質もけっこうそろってて……」
 梅原はかまわずしゃべりつづけていたが、おれは背後の席の椅子が引かれる音に気づいて、やつの腕をつついた。
 金原教授のゼミが始まってもう一カ月あまり、もともとあまり大きな教室ではないうえ、そろそろ暗黙の了解のうちに、おのおのの席の場所も決まってくる。
 おれはたいがい左の列の後ろから二番目の窓側。隣はサークルも同じ梅原。
 そして、おれの後ろの席は藤堂という男たった。下の名前は覚えていない。
 何でも水泳をやっているとかで、がたいはすごくいいが、寡黙で地味なやつだ。先月のゼミの懇親会のとき、居酒屋で隣に座ったのだが、こちらが話しかけても「ああ」とか「うん」とか言うだけだった。
 とは言っても別に無愛想というわけではない。構内ですれちがえば会釈を交わすし、この前ゼミの発表の順番を代わってもらったときは、とっても助かった。
 ゼミでは特に誰ともつるまず、授業の開始ぎりぎりにやってきて、終わればさっさと出て行くが、女じゃないんだから別に珍しくもない。実を言うと、おれも人なつっこい梅原は嫌いじゃないし、いい友人だと思っているが、ゼミくらいはいつもの連中と離れたかったというのが本音だった。
 藤堂が席につく気配に、「黙れよ」という合図を梅原に送る。別に藤堂に聞かれるとまずいという話ではないが、彼が苦手らしい梅原を黙らせるには役に立った。
 ベルの音と同時に教授が入ってくる。皆ががたがたと音をたてて席を立った。
 授業はたいしておもしろくもないが、出席と発表を真面目にこなしている限り単位は楽勝だと先輩から聞いていたゼミだ。確かにテーマに目新しいところはないが、レポートの量もそんなに多くないし課題もそこそこ簡単なので、今年一年楽に過ごせそうだった。ただしこの教授、学生を立たせるのがやたらと好きで、授業の開始終了時の挨拶はもちろん、簡単な質疑応答の際にも必ずその場で起立させる。なんだか高校の授業のようだな、とおれは思っていた。
 ゼミは隔週で課題の発表が順番にまわってくる。
 今も当番の女生徒が前に出て、たいくつなレポートを発表していた。
 おれがあくびをかみ殺しながらも聞いているふりをしていると、ふいに背後から肩をつつかれた。
 なんだ? と思ってわずかに体をよじると、後ろから二つ折りの小さな紙切れが差し出される。
 周囲に気づかれないようにそれを受け取り、テキストの影でそっと開くと、そこには「ヌケルぞ。行ってみろ」というメッセージと、ホームページのアドレスらしいURLが手書きで走り書きされていた。
 おれは正直びっくりした。後ろの席は藤堂のはずだ。
 毎授業ごとに梅原と交わしている会話を聞かれていても不思議ではないが、やつが猥談に加わってきたことは一度もなかったし、こんな直截な物言いをする男だとは思わなかった。
 ヌケル、だって? あの藤堂が?
 おれはその授業の間じゅう上の空で、何度ももらったメモを開いてその文字を確かめていた。
 終業のベルが鳴り、礼をして教授が教室をあとにすると、おれは待ちかねたように後ろを振り向いたが、藤堂はすでに荷物をバッグにつめ、席を離れようとしていた。
「おい、これ……」
 おれがメモのことを問いただそうとすると、やつは大きな体を折り曲げるようにしておれの耳元に唇を近づけ、ささやいた。
「安心しろ、モデルは日本人だから」
 おれが唖然としているうちに、やつはさっと身をひるがえすと、大股で教室を出ていった。
「なんだよ、それ?」
 手の中のメモを梅原に見とがめられ、おれはあわてて「何でもない」と上着のポケットにそれをつっこんだ。



 それはそれでけっこう印象的なできごとではあったのだけれど、そのあとサークル内のもめごとにまきこまれたりして忙しくなり、おれは藤堂に教わったページにはアクセスせず放っておいた。もうエロサイトに対する興味が薄れてきていたのも一つの理由だろう。
 思い出したのは次の週のゼミ前夜、簡単な予習をすませ、だがまだ就寝には早いなとぼんやりしていたとき、ふいに例のメモのことを思い出したのだった。
 明日は藤堂にも会う。梅原じゃないけど、見たかときかれたら一言くらい感想を述べられるようにしておかないとまずいのかもしれない。一回でも見ておけば「ありがたいけど、もういいよ」と次回も断りやすい。
 おれは面倒くさいな、と思いながらモデムを立ち上げた。
 気が乗らないときに見るエロサイトほどおっくうなものはない。
 ネットにつなげると、おれはゼミの日に来ていた上着のポケットからメモを取り出し、それを見ながら律儀にURLを手で打ちこんだ。
 聞いたことのないアルファベットの羅列。海外サイトだろうか。
 おれは最後の/(スラッシュ)を入力して、ポン、とエンターキーを押した。
 たいして待たされもせず、ブラウザのウィンドウに真っ黒な画面が現れた。
 てっきり派手な画像が表示されると思っていたおれは、そこに現れたそっけないほど地味なページに意表をつかれた。
 真っ黒な背景に、たいして長くもない、白い文字が並んでいる。日本語だった。

 『彼のジーンズは、どう見ても一インチ小さかった』

「なんだ、こりゃ」
 おれは一人声に出した。
 小説なのか? 彼女じゃなくて彼?
 本当にたまっていたときなら、こんなページ、すぐにでも読むのをやめてよそへ移るところだ。
 だがそのときのおれは別にオカズを探していたわけでもないし、藤堂の教えてくれたページに興味があったので、そのまま先を読み進んだ。それでも心のどこかで、おれか藤堂かのどっちかがURLを間違ったのではないかと疑っていたのだが。

 『彼のジーンズは、どう見ても一インチ小さかった。
  後ろから見ると、尻と太腿の肉がぴちぴちにはちきれそうになっている。
  彼が教授に指されて席を立つと、いつも、形のいい、小さな尻が、おれの机の上にのぞく。
  肉のうすい背中が、某コーヒーメーカーのTシャツの下で、彼が息をつぐたびに上下している。
  それを下にたどると、洗いざらしのジーンズに包まれた細い腰がある。
  尻山の下に大きくよった二本のしわが、くっきりと食い込んで、絶妙な肉感を浮き彫りにしている。
  おれは口の中が乾くのを感じる。
  もう一度目を上げると、ウエストから下へ続く、縫い目のラインを目でたどる。
  縫い目は尻の真ん中を割り、肉を押し上げるようにして長い脚の間へ消えていく。
  その奥におれは目をこらす。
  誘うように消えていくみだらなライン。
  おれは、手にしたボールペンの先をそこに向ける。
  もちろん実際に触れたりはしない。
  だが、頭の中でそれで縫い目をたどり、そして……』

 おれは、たまらなくなって画面右上の×ボタンをクリックすると、ブラウザを閉じた。
 一人きりのワンルームに、自分の息づかいが響く。
 藤堂、あいつ――!
 顔に血が上るのが自分でもわかった。
 最初はなんのことかわからなかったのだが、教授うんぬんというところで引っかかり、読み進めていくうちに「彼」が自分を指しているのだとわかった。
 某コーヒーメーカーのTシャツ、というのも覚えがある。懸賞であたった紺のシャツ。確かにゼミに着ていったことがある。そしてあの日の朝、遅れそうになってあわてて手に取ったのは、高校時代の少し小さめのジーンズだった。
 くそっ、藤堂のやつ――!
 これを書いたのがやつなら、文章の中の「おれ」というのは彼本人なのだろう。
 あいつ、いつもおれの後ろの席に陣取って、こんなこと考えてやがったのか!
 気持ち悪い、というより腹が立つ。
 やつの妄想はもとより、それをおれに見ろ、と挑発したことがだ。
 マジでおれに欲情してんのか、単なるいやがらせなのかはわからないが、どっちにしろ、なめやがって、とう気持ちが強い。
「何が、ヌケルか、だ。ふざけやがって。自分のケツの話で誰がヌケルか」
 モデムを切り、パソコンの電源を落とすと、おれはベッドの上に転がった。
 藤堂の顔を頭に思い浮かべようとして失敗する。塩素で色の抜けた短い髪や、がっしりした肩幅なんかは印象にあるのだが、具体的な顔のパーツはほとんど印象に残っていない。
 地味でおとなしい男だと思っていたのに。こんなセクハラまがいのことを考えているとは思いもよらなかった。



 梅原と連れ立ってゼミの教室に入ると、まだ藤堂は来ていなかった。
「梅原、悪いけど、席そっちと変わってくんない?」
「別にいいけど、なんで?」
「こっち日が照ってちょっと暑くて……。そのうちクーラー入るだろうけど、それまではさ……」
 おれは適当なことを言ってごまかしたが、梅原はたいした気にした様子もなく、気軽に席をとりかえてくれた。
 藤堂の前の席なんてこんりんざいごめんだ。
 女じゃないんだし、ケツくらい見られて減るもんでもないが、やつを喜ばせるのは業腹だ。
 サークルの人間関係でこぼしている梅原の愚痴を聞き流していると、教室の後ろの戸が開いて、誰かが入ってきた。
 後ろの席に荷物が置かれる気配に、息をとめる。
 そうなんだ、藤堂の隣の席は空いているんだから、やつが望めばおれの後ろに座ることだって可能なのだ。
 だが、息をひそめてじっと気配をうかがうおれの緊張とは裏腹に、藤堂は梅原の後ろの椅子を引いて腰を下ろした。
 あてがはずれたような気がして、体の力が抜ける。
 眠そうな顔の教授が入ってきて、いつもどおりのゼミが始まった。
「……そこでね、加納君。この二つの文化を比較する際に注意すべき点はなんだと思うかね」
 ぼんやりしていたおれは、梅原につつかれて、はっと顔を上げた。
 あわてて立ちあがり、机の上のテキストを床に落としそうになる。
「あ、すいません、もう一度お願いします」
 初老の教授はちらりと顔を上げたが、別に叱りもせず、もう一度質問を繰り返した。
「えーと、そもそも二つの文化は同じ言語から派生したものなので……」
 おれはテキストやノートをめくりながらも、意識は斜め後方に集中していた。
 痛いほどやつの視線を感じる。
 ろくに顔も覚えていない男だというのに、ホームページに書かれていた、やつの視線だけが、生々しく熱を放っている。
 おれは無意識に額の汗をぬぐった。
 暑い。
 席なんて代わるんじゃなかった、と今さらながら思う。
 見なかったふりをすれば良かった。無視して知らん顔をしていればよかったのだ。
 おれが席を移ったことで、やつはおれがあれを読んだことを知ってしまった。
 おれがやつを意識していることに気づいてしまったのだ。
 今日のジーンズは意識して大きめのものを穿いてきたし、その上に長めのパーカーをはおっているので、おれのケツがやつに見えるはずはない。
 だが、薄い布地など突き破りそうな露骨な視線を送られて、なぜ今まで気づかなかったのだ、とおれは自分の鈍感さに呆れるほどだった。
 やつが書いていた縫い目やらラインやらという言葉がふいにリアルに思い出され、おれは腰の後ろから下がって前へとたどるその位置が、妙に窮屈に感じられた。



 おれは翌週、またゼミの前日に、再び例のページにアクセスしていた。
 いつ更新したのかはわからなかったが、明らかにそこは、この前の授業あとに書きかえられていた。

 『彼はおれを意識して長い上着を着ていた。
  だが、そんなことをしても無駄なくらい、もうおれの脳裏には彼の尻の形がはっきりと刻まれている。
  今日、ジムで一泳ぎしたあと、一人残ったプールであお向けに浮かびながら、頭の中でまた彼のそこを思い浮かべた。
  小さな尻山。片手でやすやすと掴めそうだ。
  彼のジーンズを脱がす。
  頭の中なので簡単に魔法のように消える。
  彼は下着をつけていない。
  おれは右手を右の尻に、左手を左の尻に置いた。
  ぎゅっと掴むと、手のひらの下でしなやかに肉がたわむ。
  女と違って、ずいぶん固いが、おれの意のままに形を変える。
  おれは腿の付け根に親指をそえ、ぐっと尻山を開いた。
  だが、そこだけはいくら目をこらしても、どうなっているかわからない。
  女の場所も、そんなふうに後ろから眺めたことはなかった。
  どちらにしろ、おれは失望のため息をつく。
  彼のそこはどうなっているのだろう、と考える。
  おれの性器は薄いスイミングパンツを押し上げ、固く勃起している。
  誰かがやってきて、水面にペニスを立てているおれを見たら、さぞやびっくりすることだろう。
  おれはくるりと体を回転させて、水中へもぐった。
  彼との水中セックスを考える。
  プールで体を開いたりしたら、彼の中に水が入ってしまうだろうか。
  彼の脚をとらえ、おれの腰にまわす。
  あの長い脚がからんできたら、どんな感じがするだろう。
  おれは最近、いつでもその感触を考える――』



 背後で机の上にバッグを置こうとしたやつが、一瞬動きを止めたのがわかった。
 直に机に書いたおれのメッセージに気づいたのだろう。
 授業のあと、ちょっと用があるから、と梅原を先に帰したおれは、日の傾きかけた教室で、黙って藤堂と向かい合った。
「お前、もうあれやめろよ。誰が見てるかわかんねぇんだぞ」
「他のやつが見たってどうせ誰のことかはわかんないさ。アメリカのサイトだし、向こうのやつにはどうせ日本語は読めないしな」
 藤堂は低い声で淡々と答えた。
 ゼミの発表のときも、彼はこんなしゃべり方をする。つまらなそうな、何にでもあまり興味のなさそうな。その口調と、ホームページの強烈な独白とのギャップが、おれにはまだどうもうまく納得できない。
「お前さぁ、むなしくないの? あんなことして」
「むなしいさ」
 意外なことに、藤堂はあっさりと認めた。
「同じゼミの男をオカズにマスかいてんだぜ。むなしくないわけないだろ」
「……」
 おれは黙ってしまった。
 相手が何を望んでいるのかわからない。
 嫌だと思いつつもページにアクセスしてしまった自分の気持ちもわからない。
「なんでおれに見せるの?」
「さぁ……それこそむなしかったからかな」
 藤堂は静かに言って、窓の外を見やった。
 教室のすぐ外には常緑樹の並木があるが、その隙間から向こうのテニスコートが見える。
 複数のコートでボールを打つ音が響き、何度も歓声がわきあがった。
「滅多に話もしたことない相手のことを考えて一人もんもんとしてるのがさ。あれでも一応遠慮して書いてんだ。本当はもっとぐちゃぐちゃで、救いようがない……。だけど、どんな下司なことを考えたって、それはおれの頭の中でのことでしかない。あんたにとってはおれはただのゼミ仲間だってことはわかってたし。おれの頭の中の汚い妄想を知ってもらいたかった。無害な男だと無視されるよりも、変態って罵倒される方がマシなような気がした……」
 藤堂が目をそらしているので、おれはやつの横顔を思う存分鑑賞することができた。
 がっしりとした鼻梁。太い眉。だが、目もとと唇は繊細そうだ。今はその口元を自嘲げにゆがめている。
 藤堂が、こんな顔をしていたとは知らなかった。
「本当に、おれにあんなことしたいの?」
 おれの言葉にわずかに驚いたようだが、顔をそむけたまま、藤堂は小さな声で「したくなきゃ書かない」と答えた。耳の先がわずかに赤くなっている。
「お前、ホモ?」
「そうなんだろうな、きっと……。ちょっと前までは女とも付き合ってたけど」
「ふーん……」
 再び沈黙がおりた。この会話がどこへ行こうとしているのか、おれにもさっぱりわからない。
 自分が何を確かめたくて藤堂を引きとめたのかも。
 ただ、もう一方的にあのページを読ませられるのだけは嫌だった。
「お前、おれが好きなの?」
 藤堂はゆっくりとおれに向き直った。
 相手の顔にかすかに浮かんだ意外そうな表情が、おれのカンに触った。
 なんだよ、おれは自意識過剰の勘違い野郎なのか?
 おれは腹を立て、上目遣いに相手をにらみつけた。
「じゃあ男とセックスしたいだけ? 梅原とかでもいいのかよ?」
 おれの顔を凝視しながら、藤堂はかぶりを振った。
「あんたじゃなきゃ、だめだ、たぶん。ゼミで、最初に会ったときからおれは……」
「でも、好きなのはおれのケツなんだろ?」
 思ったよりも苛立たしげな声がおれの口から漏れた。
「ケツ?」
「お前が書いてるのっておれのケツのことばっかじゃん。尻の肉がどうのこうの、ラインがどうのってさ。フェチってやつ?」
「それは……」
 藤堂は一瞬返事につまり、ちょっと考え込んでから、言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりと答えた。
「それはつまり……おれが今まであんたの後ろ姿しか見てなかったからじゃないかな。懇親会じゃ隣の席だったし。本当のこと言うと……」
 藤堂はそう言うと、おれの顔に手を伸ばした。
「あんたの顔をこんなに近くからじっくり見たの、初めてのような気がする。あんた、こんな顔をしてたんだな」
 やつは、はからずも、さきほどおれが考えていたのと同じことを言った。
 太い親指がおれの下唇をたどる。たぶん、無意識でやっているのだろう。
 おれはむずむずしたが、ちょっとでも身動きするとやつが手を引いてしまいそうで、じっとそのままにさせておいた。
「そいで、感想は?」
「感想?」
「ケツ以外のおれはどうかってこと」
 おれは何を言っているんだろう。どうかしてしまったのかもしれない。
 誰かが教室に戻ってきて呪縛を解いてくれることを願いつつ、同時に心のどこかで、この異常な時間が邪魔されないことを望んでいた。
 藤堂は、初めてかすかな笑みを浮かべた。
 やつの右頬にオレンジ色の夕陽が当たっている。笑うと、地味な印象がくずれて、おれは背筋に熱い蜜を流し込まれたような気分になった。
「感想は……じゃあまたホームページに上げておくかな」
 冗談だったのかもしれないが、おれは「よせよ」と顔をしかめた。
「あれはまどるっこしい。感想ならおれに直接言えばいい」
 おれはそう言うと、わずかに舌を動かしてやつの親指をなめた。
 それは苦い味がした。
 舌を刺す味に、引き返せないどこかに自ら足を踏み入れてしまったことを教えられたが、罠というものが常にそうであるように、それは危険なほど甘くもあった。
【終】
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